ずいぶん前に、こんなことが話題になっていた。
はてな匿名ダイアリー:大学ってもっとすごいところだと思ってた。
このころ、二番目の記事を書かれたid:taroleoさんとtwitterでぽつぽつお話ししていて、自分の大学時代を思い出していた。
私は大してできのいい学生ではなかったけれど、だからこそ、なのかもしれない大学の楽しみ方をしていた。
たとえば、大学1~2年の教養のころは、大学の講義が楽しかった。
こんなことを研究してる人がいるんだー、とか。
こんなおもしろいことがあるんだー、とか。
でっかいカルチャースクールみたいなもので、おいしいとこばっかりつまみ食いしていればいいんだから、教養は天国だった。(そのあとは、実際に自分が「研究成果を生み出す」立場になるので、楽しいばかりではなかったけど)
ぱっと見て「げー、つまんなそー」と思った内容でも、先生の話を聞いて、「へー、そういう見方ができるのか」と思ったことも結構あった。
また、自分が敬遠していたことに、ほかの学生は目を輝かせて飛びついていたりして、彼らの話を聞いてたら、なんだかおもしろそうに思えてきたりしたこともあった。(実力はそうそう追いつかないにしても)
そうなると、簡単に「これ、つまんない」と言うのがくやしくなる。
「これって、こういう見方したらおもしろいよね」
とか、
「私は、これの、こういうところがおもしろいから、勉強してみたい」
とかなんとか、自分の言葉で“それらしく”語ってみたくなる。
高校にも破格にすごい友人たちはいたけど、大学で出会った友人や先輩、そして先生たちもほんとにすごかった。しかも数が多かった。ああいうふうになりたいなあ、と憧れて、ときには嫉妬しているうちに、おもしろいと思えることがどんどん増えていった。
つまり、私が、大学で学んだ最大の秘伝は、次の二つ。
簡単に「つまんない」っていうのは、カッコ悪いんだ。
学問って、つまらなそうに見えることからでも、とてつもなくおもしろいことを見つけだして、みんなに伝えることなんだ。
これは、ちょっと生意気な高校生や、私のまわりにいた大学生たちが、おそらくはとうに気づいていただろうことだけど。
専門に進んで、壁にぶつかったとき、出来の悪い私を最後まで後押ししたのは、「簡単に“つまんない”とは言わないぞ」という意地のようなものだったかもしれない。(そのへんの詳しい話はこちらで→「おとなの進路教室。「研究を仕事にしますか?」」。)
「楽しい、おもしろい」だけで進めないとき、この思いをずっと持ち続けることができれば、とてもいい研究ができるのだろうし、研究以外の分野でもいい仕事ができるのだろう。
でも、恥ずかしながら、私は当時の思いをしばしば忘れてしまうんだなあ。
ついでに、人間関係においても「つまらない」と言ってしまったら負けだと思う。もっと言えば、相手を否定したら負けだと思う。
「あいつはつまらない奴だ」「軽蔑に値する人間だ」と否定してかかると、敬意をもった交流から得られるはずのものを逃してとても損をする。
相手をナメてかかったおかげで、あとで自分が痛い目に遭うことだってある。
でも、そもそも、人間関係はすべて損得や勝ち負けで量れるようなものではないのだけど。
本来、どのような理由があろうとも、人が人を侮ったり、否定したりすることがあってはならない、と私は思う。
他人を侮蔑することを正当化できる理由など、どんな人間がもつだろう。
他人を侮辱する権利など、どのような法が定めているだろう。
しかし、これまでに私が誰かと否定的に対峙したことがなかったとはとても言えないし、これからも、一歩間違えれば、そのような危険性があるだろう。
そんな危機に、今度私が瀕したときのことを考えてみる。
相手の人間性を尊重するがゆえに相手を侮辱しない、ということができれば良い。でも、どんなときにもそのようにできる自信は、正直に言えば、ない。
だからたぶん、次善の策として、私は「相手を侮辱したら負け」と考えて行動するだろう。そのような動機が最良だとはとても思えないけれど、相手と自分の尊厳を傷つけることは、きっと避けられるだろう。
しかし、相手が殺人犯だったら? レイプ犯だったら? 私ではなく、私の家族が侮辱されたり、危害を加えられたとしたら?・・・もちろん、いかなる場合であっても、私は相手そのものを侮蔑し、侮辱してはならない。行為についてはともかく、相手その人について人間性に欠ける、非人間的だ、などという言葉を投げつけてはならない。しかし、そんなことができるのか?
相手を憎むことと、相手の人間性を否定することの境目は?
そんなことを、この数日、考えていた。
答えは、まだ出ない。