かけがえのないひと

先週の「石川先生を偲ぶ会」以来、ずっと考えていたことがある。


門下生たちが先生にまつわるエピソードの数々を披露したあと、最後に先生の奥様がお話しくださった。

ひたすら研究、研究、研究、だった先生。お子さんが小さい頃も、あまりご一緒に遊ぶということはなかったそう。

それでも、次第にお子さん方が成長なさるにつれ、父親ならではの相談に乗ってほしいときが何度もあった、と奥様はおっしゃる。

しかし、先生は「今は学生たちが大切なんだ」、そして「とにかく60(定年)になるまで待ってくれ」とおっしゃったという。


奥様は、この言葉をお話しになるとき、しきりと声を詰まらせた。様々な思いが一気に溢れ出したご様子。

同じく研究者の夫をもち、毎日遅い帰りを待ちながら、小さな子どもを育てている母親として、お気持ちは察するに余りあり、私も喉元が痛くなった。

しかし、奥様はこう続けられた。

「その頃の学生さんたちが、今、こんなに立派になられたことを嬉しく思います」と。


奥様ほど人間のできていない私なら、先生のようにはっきりと言われたら

「子どもよりも妻よりも、学生が大事なんて!」

「もういい、それなら私が一人で育てます」

と言って家を出る(いや、うちの会社の借り上げだから、夫を追い出す)かもしれない。

しかも、先生の場合、毎週金曜日の研究室飲み会に始まり、とにかく楽しい酒席は欠かさなかった。

「仕事とか言って、結局は楽しんでるんじゃないの、むきー!」

などとおっしゃらなかった奥様はさすがである。(私は既に言っている)


私たちが何も考えずに、のびのびと過ごしていた石川研究室という学問の楽園(お酒つき)。

先生は、確かに学生たちにとってかけがえのない「父」であったと思う。


よく、育児と仕事の両立に悩む母親を慰めるのに

「お金を稼ぐための仕事は、代わりにできる人がいるけれど、この子の母親という仕事はあなたにしかできない」

という論法が使われる。

同じ論法は、育児から逃避する父親に対しても使われることがある。


しかし、ある時点、ある立場においては、親業でない仕事においても、かけがえのない人というのはいると思う。

夫も、先生ほどではないにせよ、それに近い気持ちなのだろう。

夫も研究者であり、教育者である以上、娘だけの「父」ではないことを、私も胸にとどめておかなくてはなるまい。


「偲ぶ会」では追悼文集が編まれた。私の寄稿を以下に。


不肖の弟子


石川先生との出会いは、「不可」から始まる。

学部時代、動物学専攻に配属されて、最初に受けた先生の講義で、私はみごと「不可」をいただいた。先生ご自身から再試験の連絡を受けたのは母で、私は二重の不面目をしでかした。

恥知らずなことに、学部4年の卒業研究で細胞生理化学研究室に入れていただき、ボルバキアの研究に従事することになる。

この奇妙な細菌も十分に魅力的だったが、毎週金曜日に開催(?)される教授室での飲み会も、それに劣らず私を惹きつけた。先生を囲んで多士済々、尽きない話題にテーブルの隅から目を輝かせたことを思い出す。いっぱしの研究者のつもりで、何かと出しゃばっては生意気な発言もしたが、先生は片手にビールのグラスを持ち、いつもの腕組みで聞いてくださった。「セニョリータ」と呼びかけてくださるバリトンが、今でも響いてくるような気がする。

東大ご退官後は、何度か放送大学を訪れ、博士課程で続けていたボルバキアの研究の話など聞いていただいた。やっと再びご自身で実験できる嬉しさ、眺望の良い部屋でお好きな執筆活動に専念できる喜びを語ってくださった笑顔を忘れることができない。

ある折、またしても生意気に「私は現場で手を動かしているのが大好きなんです」と申し上げたことがある。すると、先生はすかさず「頭を使わないで済むからね」と釘を刺された。なかなか論文という結果を出さない私への、最後のお叱りであったと思う。

そんな不肖の弟子も、なんとか企業に研究職を得、また一児の母ともなった。昨年、先生とお別れしたときに、お腹の中にいた娘である。虫の形をしたおもちゃがことのほか好きな子に育っている。

これから、企業人として、そして母として、長い人生を歩んで行くことになる。いつかその終わりに、先生から、せめて「可」をいただけるように、一歩一歩進んで行きたいと願っている。




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