地人書館の永山さまより頂戴いたしました。ありがとうございます。
敬愛するサイエンスライター・森山和道さんによる、クマムシ研究の第一人者・鈴木忠さんへのインタビュー。森山さんのサイエンス・メールで配信されたものがもとになっています。
読みおえて、鈴木忠さんとはなんと危険な男であろう、と思いました。
本書は、クマムシというふしぎな生き物の魅力もさることながら、鈴木忠さんという研究者の魅力をあますところなく描いています。
鈴木先生の何が危険か。
それは、「こんなふうに研究をして生きていけたらなあ」という基礎科学者の願いを、いかにも飄々と、淡々と、かるがると実現していらっしゃるように見えるところ。
そして、その見かけの下に、実はたいへんシニカルな目と、強い反骨精神を保っていらっしゃるところです。
私も鈴木先生のようになりたい、なれるかもしれない、と思わせられますが、実はそれはとても難しいことなんですよね。
クマムシは、そのへんのコケやら土やら池やら海やら、さらには極地や深海などの極限環境にも棲息している、ちいさなちいさな生き物です。
クマムシは乾燥すると「樽」のような形に小さく縮こまり、生命活動をほとんど止めて死んだように見えます。しかし、その状態では極端に高い(または低い)温度や強い放射線などにも耐えることができ、水をかけるともとどおりに「生き返る」というふしぎな能力をもっています。
こんな生き物がいることを最初に知ったら、「うわー、見てみたい」と思うでしょう。鈴木先生は、その「見たい」「見ていたい」という興味でひたすら突き進んでいらっしゃる。
クマムシが餌のワムシを食べる様子を見て
これなんか腹が減っているときに見ていると「うまそう」というか、こっちが腹が減ってきますよ(笑)。
というくだりには、見ていらっしゃる表情が目に浮かんでくるようで、私までおなかがすいてくる(笑)
「単純に、それを見て面白い」というそういう時代の人たちが羨ましいと思っていました。
・・・(中略)・・・
「面白さ」だけで、そういうふうにやってみればどんどんデータが出る時代で、簡単だし、いいなと(笑)。お金は掛からないけど必要なのは顕微鏡一つで、後は「観る」だけ。そのセンスさえあればできる。そういうタイプの研究は、今は残っていないように見えるけど、こういうようなものの中にも、まだできること、すべきことが残っているということがよくわかったんです。
自然史的、博物学的なことがらに興味がある人は、とても共感できる思いなのではないでしょうか。
そうやって「面白さ」を追って、追って、ポストを得ていらっしゃる。「いいなあ」とため息をつきたくなるほど、私は鈴木先生が「羨ましい」。
ただ、こういうふうに鈴木先生が言えるのは、「観る」センス、それもとびぬけて素晴らしいセンスをお持ちだからには違いありません。
それは、「何を観るか」という目のつけどころについても言えます。
鈴木 ものすごくわかっている部分と、その谷間、谷間に、あまりわからないままの「手付かずの部分」というのが結構ありますね。
ーーーー谷間?
鈴木 ええ。落ち穂拾いの、拾い残しみたいなところが、ごっそりと固まっているところがあるんです。そういうテーマは、昔の人が気付かなかったということではなくて、単純に面白そうだと思っても、手付かずというか、どうやってやったらいいのかわからない。現状では「置き去りにされた部分」です。でも、つまらないから置き去りにされたというわけではないんです。
そういうところに気づくこと。そして、それに取り組み続けること。これは、決して簡単なことではありません。
今の科学技術政策は、このような研究を息長く支援し続けるような方向には行っていないのです。
鈴木 クマムシの話とは全然関係がないんだけど、外国に行っていろいろ思ったのは、日本の底の浅さですね。
ーーーーふーん・・・・・・。
鈴木 全体に「不真面目」という感じがします。雰囲気が。もちろん個々人は、みんな一生懸命にやっているとしても、何か浮ついているというか、バブルみたいな感じ。
腰を据えて、百年の計で研究や教育について考える必要性が、本書からはひしひしと伝わってきます。
長いスパンで研究や教育をしていくということは、そのスパンが過ぎなければ何も生まれない、ということでは決してない。
そういう姿勢で取り組んでいく過程から、さまざまなおもしろいこと、価値あることが少しずつ生み出されてきて、さらにそれが積み重なって、大きなしっかりとした何かができていくのだ。
そんなことを、改めて強く感じました。
今の研究界の風潮に対する批判、学問自体のおもしろさ、それだけでなく、学生時代のエピソードに至るまで、鈴木忠さんという方の魅力を存分に「観察」することのできる良書です。
生き物、学問、そして人間に興味のある方すべてにおすすめします。