「勉強ができる」という蔑称

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はてな匿名ダイアリー:勉強が出来る=頭がいい?

404 Blog Not Found:勉強が出来る=何がいい?


小学生のころ、学校のテストで苦労したことはなかった。

「勉強ができる」子供だったと思う。


保育園児のころから本を読むのが好きだった。絵本も、図鑑や「かがくのとも」も好きだった。

本を開くと、自分の知らない世界や、なぜかなつかしく感じられる世界に、体ごと入り込めるのが好きだった。

幼児教育の類はまったく受けていなかったけど、何かのごほうびにねだるものは、たいてい本だった。


小学校に入学して、真新しい教科書をどっさりもらったときは、ほんとうに嬉しかった。

《これだけの新しい世界が、私を待っているんだ!》

嬉しくて嬉しくて、教科書を次々めくって読んでいたら、新入生の世話をしに来た6年生が、「おまえ、ほんとうに読めるのか?」と言った。

くやしいので音読してやったところ、「じゃあ、俺のも読んでみろよ」と6年生の教科書を渡された。それも読んだ。

「すっげー、こいつ、1年なのに6年の教科書読んでるよ!」と、大騒ぎになった。


それ以来、私には「頭のいい子」という称号がついて回った。

賞賛の意味でそう呼ばれることが多かったが、「変わってる」「すかしてる」という意味での蔑称として呼ばれることもあった。

だから、私は「頭がいい」と言われることが、どうしても好きにはなれなかった。「まじめ」「いい子」という呼び名も、同じ意味で嫌いだった。


小学生の同調圧力はあなどれない。飛び抜ける子は、どうしても叩かれる。

(ちなみに、その後、これに近い思いを味わったのは、初めての東大卒・女性課程博士として前の会社に勤め始めたときだった。)


幸い、私は級友に集団でいじめられた記憶はないが、小学校三、四年生のころの教師には、手ひどくいじめられた。級友や教師に、「勉強ができる」ゆえをもっていじめられた子供、今もいじめられている子供はたくさんいるだろう。

実際、その後に進学した中高一貫の女子校や東大で出会った友人たちは、多くが小さな頃にいじめられた経験をもっていた。


たとえば体育や音楽でずば抜けた能力をもつ場合、その子は胸を張っていられる。

でも、「お勉強」の教科に秀でている場合、その子はそれを無邪気に誇りに思うことはできないばかりか、後ろめたいことのようにすら思うことを強制させられる。


この非対称性は、なんなのだろう?

どうにも不思議だ。

なぜ、かけっこが速くてもいじめられないのに、勉強ができるといじめられるのだろう?


かけっこが速い子=素朴で子供らしい子、勉強ができる子=小賢しくてかわいげのない子、という印象がまかりとおっているように思えてならない。

この印象論が大人に対して、「頭がいい・悪い」という言葉をもって当てはめられると、勉強以外が得意な人=頭のいい人、勉強が得意な人=頭の悪い人、という差別的言辞になるのではないか。


実際は、かけっこが速くたって小賢しい子はいるし、勉強ができたって素朴な子はいる。

大人だって同じことだ。

ただ世間智に長けているだけで「自分は勉強はできないけど頭はいい」と思っている人は、頭がいいと言えるのか。

実際には因果関係がないものに、因果関係を見出そうとする態度こそ、「頭が悪い」となじられてしかるべきではないか。


勉強ができる、できないにやたらと拘る人に問いたい。

子供のころは「子供らしさ」という基準で、大人になったら「頭のよさ」という基準で、他人の人格に優劣をつけなければ気が済まないのですか、と。

あなたたちは、なんとかして他人を見くびり、見下すことしか考えていないのですか、と。


勉強ができる子供の多くは、ただ勉強がおもしろいから、楽しめるから、できるようになったのだと思う。

ただ、機械のように言われたことだけをやっていたからでもなく、先生に気に入られたい一心の功名心の塊だからでもない。

でも、どうしてもそういうことにしたがる大人が多いこと、そんな大人に影響を受けた子供が多いことに、多くの「勉強ができる」子供たちは傷ついてきたはずだ。


そう、たとえばこんなことを言う大人に。

勉強って、ほとんど頭使わないよね。

人様に言われたことを、やればいいんだから。


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小学生のころの私は、国語も算数も理科も社会も、みんな新しい本のページをめくっていくような気持ちで楽しんでいた。

誉められるのはもちろん嬉しかったが、それ以上に、学べば学ぶほど、新しい世界が広がっていくことが楽しく、嬉しかった。


「勉強ができる」=「要領がよくて小狡いやつ」としか見ない人たちには、私が本や教科書の中に、どれほど豊穣で、愉快で、ときに苦しくて、哀しい世界を見ているか、伝えたくてしかたなかった。


正直に言えば、大学以後の私は、子供のころのような感動や熱意をもって学問に取り組んでいたとは言えない。

恋愛や、アルバイトや、さまざまなことに気が散っていたと思う。それが今の私をつくっていることには違いなく、今さら後悔してもしかたないし、後悔するだけのものではない経験をしたかもしれない。


しかし、私の周りにいた研究者の友人や先輩たちは、子供のような感動と熱意をもち続け、創造することの苦しみと喜びを加え、大人の忍耐力をもって、学問の豊かで美しく、実り多い世界を、自ら築き上げてきた。


彼らの中には、それこそ研究以外のことはできない人もいる。

しかし、彼らが経験してきたこと、つくりだしてきたもの、そして彼らの能力は、もっともっと評価されてよいと思う。

(私自身が、研究者としての夫を正当に評価できているかといえば、非常に心もとないのだが)


日本の企業は、博士以上の高学歴者を敬遠するという。そこには、勉強のできる子供に対する偏見と同質の偏見がひそんでいるような気がする。


また、女子がなかなか理系に進学しないことの原因の一つも、ここにあるのではないか。

好きな男の子に「お前は頭いいから、俺とは違うよな」と言われて、胸をえぐられるような思いをしたり、女の子グループに「ちょっと勉強できるからって、大きな顔しないでよ」と仲間はずれにされたことがきっかけで、勉強、特に理数系から遠ざかる女子は、きっとたくさんいると思う。


日本の科学技術の発展を妨げているもののひとつは、「勉強ができる」ことを蔑みの対象とするような、小学校から企業にも広がる精神風土なのではないか。