夫に娘を見てもらい、標記のイベントに行ってまいりました。
内田麻理香さんもいらしてました。
ゲストの渡辺政隆さんと植木不等式さんを、以前から個人的に存じ上げているということもありますが、香山リカさんのお話を直接聞いてみたかったミーハーな私。
お三人の息がぴったり合って、とても楽しいトークショーでした。
渡辺政隆さんの新著「一粒の柿の種―サイエンスコミュニケーションの広がり」の出版記念ということですが、その内容については別途ご紹介させていただくとして(すみません)、今回のトークの内容を簡単にご紹介。
大きく分けて、
・サイエンスライターという職業
・科学について日常的に語り合う環境(日本vs欧米)
・スピリチュアルの功罪について
・ニセ科学やスピリチュアルに科学がどう向き合うか
・サイエンスコミュニケーションの今後について
といった話題が展開されました。
以下、一部のメモと感想です。お名前は敬称省略にて失礼します。
サイエンスライターという職業
植木: 渡辺さんは、サイエンスライターという職業で食べていっているのだから、レッドデータブックに載るほど珍しい存在だ。
渡辺: 私は最初、“注文の少ない”科学エッセイスト、と名乗っていたこともあった(宮沢賢治の「注文の多い料理店」をもじって)。
香山: なぜ、アメリカではサイエンスライターが食べていけるのか?
渡辺: ひとつは、英語で書いているから、全世界にそれが流通することができる。もうひとつは、出版のシステムの違い。アメリカでは、書き手が企画を出す。それが受け入れられると、エージェントがついて、取材費や生活費を出して書かせ、出版までもっていく。
植木: また、企業や団体(NASAなど)で、お抱えサイエンスライターを雇っているところが多い。サイエンスライターという職域がしっかりある。
植木: かつては、「ジャーナリスト」などではなく、「サイエンスライター」と名乗ると仕事がこないとも言われていた。
渡辺: しかし、そう名乗らないと日本は変わらない。だから、私は5,6年前からサイエンスライターと名乗り始めた。
「サイエンスライター」という肩書きそのものが、受け入れられにくいとは知らなかった。ジャーナリスト>ライターという構図でもあるのかしらん。
「サイエンスライター」には、半端もの、みたいなイメージがあるのかな。それはおかしいね。
《追記》
ブックマークコメントで、b:id:kamezoさんから、「サイエンスライターの書くものは専門的すぎてわかりにくいというイメージがあります。高卒程度の科学知識があることを前提とするし。でも実情=小6辺りを前提にすると紙幅が足らん(汗」というご指摘をいただきました。
なるほどなるほど。
科学について日常的に語り合う環境(日本vs欧米)
香山: そもそも、科学について日常的に話題にするような環境がないのでは。
渡辺: 海外、たとえばアメリカでは、ニューススタンドにも科学雑誌があるが、日本にはない。
植木: 日本はアメリカより国としての歴史が長く、その中で科学の歴史は浅い。しかし、アメリカは国としての歴史は浅いが、その国民の中に受け継がれてきた科学の歴史は長い。だから、日本の雑誌は、歴史や人物伝を多く取り上げて科学を取り上げず、アメリカの雑誌は、歴史そのものより科学を取り上げるのではないか。・・・信長が科学をやっていればよかったんだ!(笑)
植木さんらしいジョークですが、歴史の浅さというのは、確かにあるのかもしれない。
しかし、いいかげん、日本に科学が根付いてもいいんじゃないかなーという気もする。
なぜ、科学が日常にならないのだろう?
ニセ科学やスピリチュアルに科学がどう向き合うか
渡辺: 日本の風土として、宗教のようなものに寛容ということはある。自分が信じなくても、信じる人の存在は否定しない、というような寛容さ。
香山: しかし、そういう人が増えると、サイエンスライターは飯の種がなくなるのでは? どうも、サイエンスライターのお二人は、スピリチュアル的なものに寛容なのでは?(笑)
植木: 科学者は、自分の発言の穴まで考えながら話すから、説得力はないかもしれない(笑)
渡辺: だから、ものごとを断定するスピリチュアルな言説と比較すると、科学的な物言いは信頼できないように見える。精神科の患者さんでも、はっきり断定してほしいという方がいるのでは?
香山: いる。科学的な物言いでは「80%は治る」としか言えない場合でも、患者さんは「自分は治るのか、治らないのか、どっちだ」という情報を求める。一般的には、科学は白黒はっきりつけるもの、というイメージがあるが、そうではない、ということを伝えていかなくてはいけない。
渡辺: 科学は、仮説を立てて検証し、新しい事実が発見されたら、また新たな仮説をたて、とどんどん書き換えていくことができる。これは、とても建設的な営みだ。
香山: それが建設的で健全だということを、どう伝えるか。伝える真剣さから言えば、ビリーバーの方がよほど上では? 科学者も真剣になって、相手の所に乗り込んでいくべきでは?
渡辺: しかし、相手の土俵に乗ると、科学的な論争ができなくなる。
これについては、この場では結論は出ないまま。
難しい問題だと思う。
サイエンスコミュニケーションの今後について
香山: 今年のノーベル賞で、科学への関心度は上がった?
渡辺: 以前、小柴先生と田中さんが受賞したあとの世論調査では、逆に科学への関心度は下がっていた。当時は、受賞したお二人の人物にむしろ興味が集まっていたように思う。今年も、マスコミの扱い方は人物の紹介に焦点が当たっていて、受賞内容の科学そのものはあまりきちんと紹介されていない。科学への関心度が上がるかどうかはわからない。
渡辺: やはり、井戸端会議のように科学を語る場がほしい。
植木: 科学フェスティバルのようなものをどんどん開催していくのもよいだろう。
香山: ヒーローというか、「科学王子」みたいな存在もほしい(笑)
渡辺: 科学者のロールモデルとしては、たとえばアインシュタインなどはいる。最近の日本では、茂木健一郎さんや養老孟司さんがいるが、専門家の科学コミュニティには、むしろ距離を置かれている。
渡辺: 欧米の科学者は、一般向けにものを書くときには、きちんとサイエンスライターと名乗って書く。しかし、日本ではあくまで「科学者の“余技”」扱いで、それではダメなのではないか。
植木: 寺田寅彦の「柿の種」にちなんだ題名の本を出された渡辺さんには悪いが、寺田がそういうスタイルをつくってしまったのではないか?
渡辺: 寺田は文筆家、随想家、と名乗っているようだ。
香山: 今、何が問題なのだろう。
渡辺: 専門家が、専門以外のものを書くことについて、専門家コミュニティはあまりいい顔をしないこと。また、日本のメディアは、ひとり「使える」書き手を見つけると、その人ばかりを使いたがる傾向がある。もっと多様な人たちが発信できるとよい。
植木: ブログという場もある。
渡辺: やはり、多様性が重要だと思う。
最初に渡辺さんが紹介されていたアメリカの例のように、「書きたい」と思った人が、自分から企画を立ててもちこむような、そんな気概も必要だろうな、と感じた。
これは自分に対して。
その他、質疑応答も充実していた。
渡辺さんが、ダーウィンは歴史をいかに科学にするかという方法論を打ち立てた、というお話をなさったときの言葉が印象に残った。
「我々の生きる先は誰にも決められていない。だからこそ、科学は生きる指針になるのだ」
その後、関係者の方々の打ち上げにむりやり入れていただき、とても楽しい時間をありがとうございました。
香山さんのところの学生の方に、研究の話をたくさん聞かせていただいたのが、実に有益だった。僭越ながら、この先がとても楽しみな方だ。
というわけで、今後二回のトークショーも楽しそうです。
そのほかにも、香山さんはさまざまなイベントを企画していらっしゃるようで、なんとバイタリティーあふれる方なんだ、と思いました。