よい噺家が育つにはよい噺をふんだんに聞くことのできる状況がなくてはならない、とぼくは考える。豊かな土壌があれば、よいものが育つ。
落語というのは凄いものなんだゾとか、いかに素晴らしいかなどをいくら力説してみたってだめだ。その力説に心を動かされて落語界入りをした者がいたとしても、ただ“理屈好き”とか、説得されてしまったことに酔って“その気”になっちまった者であって、彼らにはいいとこ、そこそこの期待しか持てない。
理屈ではなく、ただただ芸の力に圧倒されて、よし! きっとああいう噺家になってやる! と心を熱くする若者こそ期待できる。
落語家論(柳家小三治)
これ、引用文の中の「噺」を「科学」に、「噺家」を「科学者」にしても成り立つのではないか、と思いながら読んでいたのだけど、それだけじゃないな、と思った。
どんな仕事でもそうかもしれない。
若者を迎える側としては、ただひたすら良いもの、良い仕事を見せていくこと。
そして、その世界を志す者としては、他人の理屈で説得されようとするのではなく、みずからの目で、耳で、頭で、その世界の魅力を感じて、自分の心を熱していくこと。さらに熱し続けていくこと。
さらに言えば、生きることそのものについても言えるかもしれない。
この世界に新しく子供を迎える。
子供はやがて、この世界で生きることについて、大小さまざまな壁にぶつかるだろう。
そんなとき、子供に「生きるって凄いことなんだゾ」とか「生きるっていかに素晴らしいか」なんて力説したってしかたない。
私たちにできることは、自分自身が生きていること、そのありようを示していくことだけではないのか。
そんなことを考えたので、メモしておく。
ちなみに、私が小三治さんを聴いたときのエントリはこちらにあります。
ええ、私は落語大好きなのですよ。長らく寄席に行ってないので、そろそろ行きたくてしかたありません。