先日のエントリに、たくさんのコメント、トラックバック、そしてブックマークコメントをありがとうございました。
まず、その後、今井先生ご自身のブログで、以下のような記載があったことをご紹介しておきます。
一つだけ筆者として書き落としたことがあった。それは「算数数学の豊かさ」である。「直線的」「クリック的」と私が書いたのは、あくまで「受験の算数数学」あるいは「塾や予備校で教えられている算数数学の現状」であって、実際に大学で学ぶ数学、あるいは数学の本質が、国語に劣らず豊かで複眼的で祝祭的であることは当然である。熱心に私のブログを読んでいただき、かつ国語の豊かさについての記事にも絶賛を送っていただいた数学者の方から、「数学の豊かさについても書いてあればもっとよかった」とのご指摘があったことを、書き加えておきたい。
今井先生のブログには、トラックバックやコメントをお送りすることはできず、また以下のようにおっしゃっているところから推察するに、詳細なアクセス解析等もされていないようなので、おそらくこのブログで言及されたことはご存知ないようです。
3日前の「国語が苦手な子になるな」など、あっという間に500アクセスを超えたりして、驚きはますます大きい。おお、これほどたくさん、国語に悩んでいる人がいるんだなあ、と実感させられた。アクセス数を見るだけで、受験生やその家族、指導する先生方が、何に悩み何に困っているのかが、実によくわかるのだ。
しかし、私と同様の趣旨の感想をお持ちになった数学者の方がいらしたとのことで、そのご意見をきちんと酌まれて、このように言及されたことに、敬意を表します。
さて、皆さまのご意見をいただきたいと申し上げた私のエントリに関しても、いくつかのブログで言及をいただいたので、お礼とともに以下にご紹介します。
まず、ちょいワル親父と数学ガール - くるえるはてなくしょん(kskmeukさん)では、ちょいワルお父様に数学を教わった楽しさが紹介されています。
また、
体感まで落っこちるところまで行くと楽しいね。どうして、学校の水泳の授業のように、泳げる子、普通の子、苦手な子みたいにさ、算数や数学とかしないのだろうね。
というご指摘、これはまったく同じことを不思議に思っていました。
「体育ができる」ことは、晴れがましく誇ることができるのに、「勉強ができる」ことは、なぜか単純に誇ることができないのですよね。
休み時間に図書館で本を読んでいると、子供は外で遊べ、と言われたりね。
もしかして、学校の先生の中には、自分より勉強ができる子供を恐れたり、忌避したりする方が相当数いらっしゃったりはしないだろうか・・・。(単に、私が小学生の頃、そういう教師とぶつかりあったことがあるだけなんですが)
次に、俺の中ではその道はまっすぐなんだ - ++C++; // 管理人の日記(ufcppさん)は、このようにおっしゃっています。短いので、全文を引用させていただきます。
数学とか得意な人間の感覚としては、数学の道はすごく「まっすぐ」です。でもたぶん、それは一般的な感覚の「まっすぐ」とは違うんです。
* ぱっと見まっすぐには見えないかもしれないけど、移動コスト最短の道こそが俺の中ではまっすぐに見えるんだ
o そういうコスト的な意味での最短経路、シャイニングロードみたいなものが見えてます
* 今、まっすぐな道がないなら、自分でまっすぐな道を引けばいいじゃないか
o ここにトンネルを掘ればまっすぐになるでしょ
みたいな感覚。
特に、「今、まっすぐな道がないなら、自分でまっすぐな道を引けばいいじゃないか」という考え方がおもしろいと思いました。
このような考え方を、今井先生が「直線的」とおっしゃったのかと言えば、たぶん違うと思いますが、この「まっすぐ」は美しい。
まなめはうす(manameさん)でも紹介していただきました。
確かに、私も小さい頃は算数で遊んでいた。「どの数字が一番強いか」を決めるためのルールを決める遊びが一番はまったな。チラシの裏には謎の数字の羅列がww
さすがまなめさん(笑) そのチラシの裏を見たい! 見たいぞ!
こういうルールを決める遊びって、ある意味、自分が神になれますよね。
数で遊ぶのって、そういう楽しさもあるかも。
最後、滑稽なこと。 - REVの日記 @はてな(REVさん)からは、こういうご意見をいただきました。こちらも全文を引用させていただきます。
以下の洞察は特に秀逸だと膝を打ちました。
国語の授業がどことなく滑稽な感じがするのは、ちょいワルがニヤニヤ笑いながら書き、仲間内で回し読みし、暗い喫茶店や飲み屋で笑い転げて楽しんでいた文章を、白昼の教室に引っぱりだして、難しい顔をして一語一語「この表現は、こんな意味じゃないか」と解釈を重ね、辞書をこまめに引き、板書に内容をまとめ、板書を写し、「筆者は何を言いたいのか」などとマジメに論じているからである。
当たり前のこと、感じれば分かること、を、難しい顔をし、マジメに論じている人が滑稽なのか、
非言語的には当然のことを、その「当然さ」を、言語化しよう、させようと苦心している人達を笑うひとが滑稽なのか、
ちょっと気になる。
(太字は引用者)
元の今井先生のエントリではなく、私のエントリを引用されているため、私に対するご意見かと思いますので、ここでお答えしておきます。
私が今井先生のテキストに共感して滑稽な感じがすると思うのは、テキストに書かれているとおり「国語の授業」であって、それに関わる「人」ではありません。
したがって、私は、「当たり前のこと、感じれば分かること、を、難しい顔をし、マジメに論じている人」や、「非言語的には当然のことを、その「当然さ」を、言語化しよう、させようと苦心している人達」を笑ってもいません。
また、国語の授業で取り組む題材を「当たり前のこと、感じれば分かること」であるとも思っていません。
本来はおもいおもいに楽しむべきこと、あるいはそれぞれに感じ、受け止め、考えるべきことについても、国語の授業では、あるひとつの「統一見解」を出します。
私はかつて、とある受験機関で小論文の作題と解説執筆をしばらく担当していましたが、個人の意見を書かせる小論文であっても、採点するためには「採点基準」を設けます。
そうでなくては、受験生を序列化するためのテストにはならないからです。
あるひとつのテキストについて、多くの人が一般的に読み取れる内容を、きちんと読み取れる力をつけるのが国語の教育だと私は勝手に考えていますが、それは非常に大切な力であると思います。
ただ、論説文ならまだしも、小説や詩について、まず楽しむことをせず、がちがちに一定の解釈に押し込めようとする類の教育には、私はどうしてもなじめませんでしたし、そもそも反体制だった(場合の多い)文学者たちのテキストが、受験生の序列化に使われているということはアイロニー以外の何ものでもないように思えるのです。
そういう類の「国語の授業」を、私は滑稽であると思います。
ただし、そういう授業をされない先生も多くいらっしゃって、私が出会った国語の先生の多くは、実に素晴らしい方々でした。
ある行為を滑稽であると笑うことと、その行為をした人を滑稽であると笑うことは、まったく別のことです。
罪を憎んで人を憎まず、ではありませんが、私はなんであれ、人を滑稽であると笑うことはしたくありませんし、そのような人間であると受け止められることは心外ですので、ここでご説明させていただきました。
最後にもう一度、皆さまに貴重なご意見をいただけたことを感謝いたします。
引き続き、このことについては考えていきたいと思います。