半年

復職後、半年と一ヶ月近くを過ぎた。

相変わらず大変なこともあるが、楽になったことも多い。さらに、復帰前に悩んだり、恐れたりしていたことのいくつかが解消された。そのうちのひとつが「娘と過ごす時間がなくなり、成長の過程を見逃すのではないか」というものだ。


結果として、そんな心配は全然なかった。

大きなことで言えば、歩き始めたこと、話し始めたこと、踊り始めたこと、歌い始めたこと、すべて最初に見ることができている。


それよりも、私にとってはもっと大切な心境の変化があった。それは、もし、これらの成長の徴を保育園の先生から伝えられたとしても、「見逃して残念!」ではなく、「ああ良かった」と思えているだろうということ。

「自分が娘のすべてを知っている」ことの喜びより、「娘が成長している」ことの喜びの方をまっすぐ、強く感じられるようになったことは、本当によかったと思う。


わかりにくいかもしれない。


私にとって、娘への愛情(というのも恥ずかしいけど)は、「娘を愛する自分への愛情」にたやすく変換される危険性を秘めていた。もちろん、そうでないお母さんはたくさんいると思うので、これは私の弱さだろう。

娘の成長の徴を見逃したくないという思いは、一歩間違えば、「私は娘のすべてを知っている」「娘にきちんと寄り添ったちゃんとした母親である」という自己満足になり得る。

娘から心と目を離さず、注意深く見守っていきたい・抱きしめていきたいという気持ちに変わりはないが、「娘を完全に把握したい」「非の打ち所のない母親になりたい」というエゴの恐ろしさに気づけたのは良かった。


私は残業は基本的にしないし、帰宅後は何にも優先して、娘を抱っこして遊び、用事はすべて後回し。娘の食事は必ず一緒にとる(ご飯の前に座らせて、自分は別の用事をしたりは絶対にしない)。寝るのも一緒。朝も、娘が寝坊しない限りは一緒に遊び、ご飯を食べる。

それでも、娘は既に、私だけでなく、保育園や私の両親など、いろいろな人の手で育てられている。初めは、このことに無念さとうしろめたさを感じていた。「せめて3歳までは手元で育てられたらいいのに」と言われ、傷ついたこともあった。


しかし、「育児をすべて自分の手で行いたい」と考えることのエゴに気づいたとき、わが家にとってはこれで良かったんだ、と納得できた。

「自分が選んで与えるものだけが、子どもにとって最善である」と根拠もなく信じることは、母親も子どもも息詰まらせてしまうだろう。人の手はどんどん借りて、わいわいみんなで暮らしていけばいいのではないか。


子どもが幸せに巣立つことができれば、巣立った後もしっかりと羽ばたいていけさえすれば、それで良いのだ、と思う。