荻島さんのブログエントリ「ノイエンハイムを散歩しながら日本の少子化を考える」を拝読して、つらつらと考える。
ここハイデルベルクで暮らしていると、家族での生活が生活の中心になる。東京のように、映画を観に行ったり、ショッピングをしたり、レストランで食事を楽しんだりということは生活の中心にはなっていない。そもそも娯楽はあまりない。日本は少子化が問題になっている。子育ての環境が整っていないことはもちろんで、それも今回のハイデルベルク滞在で痛感したことだが、子供をもつよりもDINKS(Double Income No Kids)の方が東京の生活を謳歌できるようになっていることが少子化の要因なのではないかと思えてしまう。ここハイデルベルクではDINKSではたぶん、つまらない生活になるだろう。週末はホームパーティを開いて、夏は庭で子供を遊ばせながら、大人たちはテラスでビールを飲むというような生活が生活の中心になるからだ。
とてもうらやましいと思う。
少なくとも東京では、子供をもった後に待ち構えているのは、孤独だ。特に母親は。
子供ぐるみで迎え入れてもらえるソサエティはない。せいぜいが「ママ友」くらいだが、そこには父親や親戚、少し大きくなった子供や、独身者の影はない。至って均一で、しばしば息苦しい女性社会だ。
それに比べて、子供のいない消費生活の充実ぶりはどうだろう。
好きなときにおいしいものを食べに行き、買い物に行き、本を読み、習い事に行き・・・。
子供をもてば、孤独で息苦しい生活に突入するとしか見えないのに、今の楽しさを手放す母親がどこにいるか。
そりゃ、少子化にもなるだろう。
しかし、母親であることの楽しさや喜びは、けっこうある。多くの母親は、実際にそれを感じているはずだ。
ただ、その幸せを表明し、謳歌することが、なぜか難しい。
たとえば、子供がいないために不幸を感じている人たちに配慮しなければいけない、という「政治的正しさ」に縛られる。
「結婚して子供を育てて一人前、という価値観を押しつけるな!」という言説を目にする機会は多い。そして、子供のいる幸せを口にすることが価値観の押しつけととられることを、ついおそれてしまう。
一方で、子供がいない方が消費生活を送る上では幸せであることへの羨望が、子供のいる幸せを素直に感じさせない。---これは「ほんとうの」幸せなのかしら?---
また、子供の父親を含めた他人、そして社会は、少しでも幸せであることを表明した人に、それ以上手を貸してくれることはしない。
父親不在の状態で子育てをしていて、とてもつらい状態なのに、母親が子供の笑顔や成長に喜びを見いだしているうちは、父親は家庭には帰ってこない。会社も帰してくれない。
他人や社会は、「現場が回って」いる限りは、手を貸してくれない。ましてや、現場を回している人が、少しでも幸せを感じていれば、なおさらだ。
「幸せを感じることもある。でもつらい」ではダメで、「幸せなど感じない。もう壊れる」と主張しなければ、現状は改善しない。
今よりもっと幸せになるためには、笑顔を殺す必要がある。
今より不幸にならなければ、今より幸せになれないという矛盾。
他人の幸せを勝手に計算して、自分が許容できるレベルを超えてまで相手が幸せになることには、決して手を貸さない。
そんなさもしい、ケチ臭い精神があちこちに広がって、いろんなことが萎縮しているような気がする。もちろん、私の中でも。*1
少しでも幸せな人を、もっと幸せにする。それで、自分が損をすることなどないのに。
自分が幸せだと言ったら、もしかしたら、少しは損をするかもしれない。
でも、それはほんとに、おそれるほどのものなのだろうか?
私から不機嫌をまきちらして、不機嫌ばかりが自分のまわりに集まってくる方が、よほど大きな損ではないか?
だから、私は今日から、おそれずに笑おう。幸せだと言おう。
同じように笑っている人が、もっと笑えるように、手を貸そう。
不機嫌な人に笑いかけるのは大変だけど、できそうなときには、やってみよう。
知り合いの方々は、私がやけにニヤニヤしていても、不気味がらないでください(にこにこ)
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*1:たとえば、自分が苦しいときに、夫の仕事を素直に応援することができない。夫が楽しそうに仕事をしていたら、その余裕をこちらに回してほしい、と思ってしまう。そんな心の狭さ。