女性の自己実現と、不幸の取り引き

どんどん不幸になっていく米国の女性たち - JBPress 

「母親の自己実現のために」育てられた子どもが背負う呪縛 - シロクマの屑籠(汎適所属)

というふたつの記事を読んで、割り切れない思いが残りました。

 「女の身でありながら」仕事と育児、さらに趣味の時間を楽しもうとしていると、しばしば「自己実現第一のスーパーウーマンを目指している」ととらえられがちで、何やら落ち着かない気持ちになるからだろうと思います。

 自己実現とは本来、人が生きていくためのポジティブな力になるものであるはずですが、なぜか「“女性の”(あるいは母親の)自己実現」という文脈で語られる場合、「自己中心」「自己満足」「なんでもほしがる欲張り」といった否定的な意味合いが強くなるような気がします。

 つまり、「“女性の”(あるいは母親の)自己実現」とは、「する必要がないことを無理してやっている」という主張とすりかえるように使われがちなのです。

 そして、上に挙げた記事でもそれは同じです。

 JBPressの記事では、「米国女性の8割が日常的にストレスを感じている」という調査結果と、それが自己実現の呪縛によるものだという結論を結びつける根拠は、この記事を書かれた方の印象にしかありません。

 また、p_shirokumaさんの描き出す「スーパーウーマン」は、一昔前の「教育ママ」「お受験ママ」のステレオタイプのような、視野が狭く浅薄で、滑稽な存在に見えます。

 母親の仕事や育児が、それほどハタ迷惑な「自己実現」でしかないのなら、父親の仕事や育児はなんなのでしょう?

 自己中心的で浅薄で、いつも不幸を嘆いているような欲張りな「スーパーウーマン」なるものののイメージを、世の働く女性や子育てする女性全体にかぶせられてはたまりません。

 私について言えば、毎日バタバタして、大変なときもありますが、それを「ヒステリックで不幸な自己実現狂」みたいに言われてしまうのは、何やらすりかえられた印象を押しつけられてる感があって、気分の良いものではありません。

 「しなくてもいい苦労を背負うから不幸なのだ」と決めつけは、それが私への否定であればまた良いですが、「お前がしなくてもいい苦労を背負うから、夫や子供がかわいそうなのだ」と決めつけられると、しんどいものがあります。痛くもない腹だって、見当違いに探られ続ければ不快なのです。

 大抵の親たちは、共働きだろうが片働きだろうが、楽しいけど大変、大変だけど楽しいって毎日なのではないでしょうか。親でない人たちだってそうであるように。

 大変なときには愚痴のひとつやふたつ(みっつやよっつ)出るでしょう。だからといって、全身愚痴で凝り固まってるわけじゃなし、手抜きも息抜きもして、バランスをとっているだろうと思います。

 ただ、あんまり手抜きしてるよー、息抜きもしてるよー、とうかつに外では言いにくいような気もして、それが問題であるとも思います。

 ちょっとでもニコニコしていたらその人の「大変さ」は無視されてしまうとか、必要以上に不幸アピールをしなくちゃ助けを求められない、というような雰囲気があるように思えてならないのです。

 これは内田樹さんの「不快という貨幣」の話とも通じるかもしれません。そして、私の中にもそのような価値観が忍び込んでいないとも言えず、ときおりヒヤリとします。

 ニュースや投稿欄などを見ていると、専業主婦が保育園の一時預かりを利用することや、生活保護家庭がたまに外食することさえ許容しない、というような狭量さを見せつけられることも多く、ため息が出ます。

 誰かに手を差し伸べるとき、いちいちその人の不幸度を査定しないと、誰が、何を損するのでしょうか。

 極端な不幸をアピールしないかぎり話を聞いてもらえない、手助けしてもらえないという状況が続くと、たぶん人はどんどん大げさでヒステリックな訴えの仕方を選択するようになるだろうし、そのような状況は、誰をも幸福にしないだろうと思うのです。

 だから、「大変だ」「つらい」と誰かが訴えるのであれば、その人の背景を参酌することなく、そのまま自分に求められている手助けをしたい。

 その人が「こうしてほしい」と訴えるのを無視して、「そのような助けはお前に必要ない」とどうして他人が決められるでしょうか。

(その人が口に出して訴えていないことを、どこまでエスパーのように察する必要があるか、ということになると、これまた別の問題になるとは思いますが。)