東進ハイスクール・今井宏先生の国語の苦手な子になるな 「いい子」に育てるな を拝読。
「予備校や塾や高校で教えるのには、得意科目よりも苦手科目の方がうまくいく」とおっしゃる内容、そうそう、そうなんだよなあ、と共感しました(ちなみに、私はかつて、河合塾でアルバイトしてました)。
そして、国語ができるようになるためには「ちょいワル」になれ、というアドバイスも納得。
以下の洞察は特に秀逸だと膝を打ちました。
国語の授業がどことなく滑稽な感じがするのは、ちょいワルがニヤニヤ笑いながら書き、仲間内で回し読みし、暗い喫茶店や飲み屋で笑い転げて楽しんでいた文章を、白昼の教室に引っぱりだして、難しい顔をして一語一語「この表現は、こんな意味じゃないか」と解釈を重ね、辞書をこまめに引き、板書に内容をまとめ、板書を写し、「筆者は何を言いたいのか」などとマジメに論じているからである。
ただ、以下の一節だけが残念でした。
もちろん、算数や数学の時間には、思考は直線的でなければならない。スーツをキチンと着て、黒い革靴を履いて、分厚いおっきなメガネをかけて、無遅刻無欠勤でなければエリート官僚として成功できるいい子になれないのと同じで、そこらへんのチンピラちょいワルみたいに、ネクタイをスカーフに変えたり、ゼンマイオヤジとかジュエリーオヤジになったり、そういう道草を食っているようでは、算数や数学は決して得意にはならない。ぜひ「いい子」を貫きたまえ。
算数や数学が得意になるためにだって、「いい子」のままではダメだと私は思います。
「ムダと道草を嫌悪する精神の持ち主が、文章の妙味を理解できるとは思えない」と、今井先生はおっしゃる。
まさにそのことが、算数や数学にも当てはまるのではないでしょうか。
ある問題を先生が解いてみせる。そのやり方をそのままおぼえる。どうしてその解法がベストなのか、ほかにはないか、などと「道草」食ったりはしない。
このような姿勢では、まるっきり応用は利かず、教科書や問題集と同じ問題以外は、決して解けるようにはなりません。算数や数学の妙味も、理解できないでしょう。
算数や数学が得意な子の多くは、ほとんど趣味のように算数や数学で遊んでいるはずです。
「2つの三角形が合同であることを証明せよ」と言われたら、「ハサミで切り取って重ねてみればいいんじゃないか」と考える「悪い子」には、いずれは算数や数学が得意になる芽がありそうに思えてなりません。
複雑な問題を考えているとき、途中をすっとばして、なんとなくの道筋が見えることはありますが、それは果たして「直線的な思考」と呼べるのかどうか、迷います。
考えているときには、頭の中で無数の道草を食っているのだと思います。
数学や物理を基礎にした他の科学も同じで、「ちょいワル」の精神のある者こそ、科学に向いているのではないでしょうか?
現象を正確に公平に観察できる目はもちろん必要ですが、これは「直線的な思考」とはまったく別のことです。
今井先生は、国語が得意になるために、国語の授業で取り扱われる「悪い子」たちが書いた文章の妙味を理解できるよう、書き手の立場に寄り添うという意味で「ちょいワル」になることを勧めておいでです。
しかし、「ちょっとひねくれてものを考える」という意味での「ちょいワル」になれば、国語も、算数も、理科も、そしておそらくは社会も、みんな得意になることができるのではないかな、と私は思うのです。
その上で、その教科や学問がほんとうに好きで、他の人よりも打ち込むことができれば、その分野に関して秀でることができるのではないでしょうか。
私は教育については素人ですので、特に初等・中等教育に携わっていらっしゃる先生方や親御さんから、ご意見をうかがえれば幸いです。
*追記
ただし、「ひねくれた考え方」「(いわゆる)独創的な発想」というのは、何もないところから、すべての子供が自発的にできるものであるとは、私は考えていません。
ひねくれた考え方をする友人から学ぶか、あるいは「こういう考え方もできるんだよ」と、うまく教師や親が、「ちょいワル」な考え方の手本を示してやることができるのがいいのかな、などと思っています。