火の玉研究とオカルト批判で有名な、大槻義彦さんの自伝的オカルト批判。
前半は、大槻さんがいかに科学を志すようになり、どういう経緯でオカルト批判をするようになったのか。
後半は、これまでは批判してこなかった血液型占いや星占いなどについての具体的批判と、科学者へのメッセージが述べられています。
おもしろいのは前半。
終戦の翌年、小学校5年生の冬、風呂場で火の玉(「ひかりもの」)を見て、驚き恐れた大槻少年は、小学校の教師たちに「ひかりもの」の正体について質問する。
多くの教師がばかにし、聞く耳をもたなかった中で、ひとりの若い代用教員が熱心に少年の話を聞き、中学や高校の理科教師のところへ連れて行ってくれた。そして、東北大学の先生にも自ら質問してくれた上、その帰りに「ひかりの話」という子供向けの科学本を買ってきてくれる。
この教師のその後の導きもあって、大槻少年は科学を志すようになる。
私がここに見たのは、ひとりの好奇心旺盛な少年が、ある不思議な現象を見て、「なんだろう?」「なぜ起こるのだろう?」と思う気持ちのまま、まっすぐに科学の道へ進んでいく、いたって前向きなストーリーです。
そのひたむきさ、前向きさは、戦後の日本が復興し、成長していく過程と重なり、ひたすら希望に満ちあふれた道のりに見えます。
もちろん、ここには書かれなかった苦しみや悩みも多くあったでしょう。
でも、研究の世界に最初に興味を持った少年少女には、このような明るい道を示してやりたいと私は思うのです。
この本に関するdankogaiさんの書評、「科学者よ、責任を果たせ」 - 書評 - 大槻教授の最終抗議では、「本書は、弱かった著者が科学を通して強くなっていく記録でもある」と評されています。
しかし、私には、大槻さんが、ことさらに弱い少年であったとは思えませんでした。
見たことのない現象に、一度は驚きおそれたものの、すぐに「ひかりものの正体はなんだ?」と追求し始めます。
「不思議な現象の正体はなんだろう?」と大槻少年が考え始めたのは、「科学」という言葉を知る前のことなのです。
大槻さんの両親は懐疑的な人々であったらしいので(父親は技師であり、母親も「ひかりもの」を目撃したと息子に告げられたとき、「夢でも見たんでねえか?」と一蹴しています)、大槻少年の中に、物事を多面的に見る素地はあったのでしょう。
学校の教師の多くも、「ひかりもの目撃談」をばかにする程度には懐疑的でしたから、オカルト的なものをみんなが盲信していた地域・時代でもなさそうです。
子供が、あるていど神話的世界に生きているのは当然ですし、めったに見られない現象である「ひかりもの」を見て驚いたからと言って、ことさら弱いとは言えないでしょう。私だって、いきなり見たら驚きます。
高校卒業まで信じていた「虫の知らせ」についても、敬愛する父親が戦地で行方不明になったままだったという事情を参酌すれば、大槻少年の弱さを示す根拠にはなりえません。
大槻さんには、科学を通して自分を強くしようなどという変な色気はなかった。
ただ、「これはなんだろう?」「なぜ起こるのだろう?」という好奇心と探求心、それを貫く意志と行動力だけがあった。
あくまで強い弱いという言葉で表現するなら、大槻さんは最初から「強かった」のです。
ただ、大槻さんはこの著書で、自分がかつて「虫の知らせ」を信じていたことを、長らく「自分の弱み」だと思って隠していたと書かれています。
これは、オカルト的な現象を信じていた過去が、反・大槻派に攻撃される「弱点」となり得る、と長年お思いだったということで、むしろ、そう思われていた後年のほうが、大槻さんは「弱かった」のではないでしょうか。
実際には弱点でも何でもないものを、弱点だと思い、隠し続けたこと。
その後ろめたさが、あのエキセントリックにも見えるオカルト弾劾の「芸風」につながり、かえって誤解や反発を招くことになったのではないか、と考えるのは、深読みのしすぎでしょうか。
オカルト批判における大槻さんの功績は、ほんとうに大きいと思います。
おかげで、科学者が“何を”うさんくさいと言うのか、多くの人が、なんとなくはわかるようにはなってきたでしょう。
しかし問題は、科学者がそれをうさんくさいと言うことを、残念ながら説得力をもって聞いてもらえないことです。
ニセ科学批判、オカルト批判、と聞くだけで、「上から目線」とアレルギーを起こし、かえってニセ科学やオカルトへ走る人すらつくりだしていないともかぎりません。
だから、たぶん、我々は、大槻さんと同じやり方はしない。
大槻さんには、おそらくは迂遠に見えるかもしれない方法で、地道に科学の普及とニセ科学批判を行っている科学者や、それ以外の有志はたくさんいます。
視聴率のような形ですぐには反応は返ってこなくても、身近なところで少しずつ、それぞれの言葉で語りかけてゆく人たち。
そして、ニセ科学批判という形をとらず、サイエンスカフェや、サイエンスフェスティバルのような場で、科学を楽しみ、共有していく活動をしている人たち。
大槻さんには、そういった若手の活動にも目を向けてほしい。そして、「学者たちは口を閉ざしているだけだ」などと、ひとくくりに言っていただきたくはない。
どうか心配なさらずに、日本の科学を担う若手を信じてください、と大槻さんには申し上げたいと思います。