なお、平川先生とは、以前からネット上でよくやりとりをさせていただき、一度はカラオケでその美声に聞き惚れる栄に浴したこともある(学問の話をしろよ>私)程度のつながりがあることを、あらかじめ表明しておく。
以下、私が感じた本書の魅力と、疑問点・違和感にわけてご紹介していこう。
魅力 -単なる「教養」本じゃない!-
本書は、平川氏のご専門である「科学技術社会論(STS)」の入門書だが、同時に読者にアウトプットをけしかける応用編でもある。
科学技術の専門家ではないひとたちを読者対象に、非専門家がどのように科学技術に手や口を出していくかを考えていくことが、本書の主題だ。
もちろん、専門家が読んでもさまざまな示唆を得られるだろう。
本書は、氏ご自身の経験や実践をはじめとして、科学技術と社会をめぐる具体的なエピソードをふんだんに盛り込みながら、平易な語り口で「公共」から見た科学技術のガバナンス(舵取り)を議論している。
「公共的ガバナンス」について手っ取り早く学ぶには、第2章「「統治」から「ガバナンス」へ」が文句なしに出色のレビューであるといってよい。
しかし、本書の魅力は、読者ひとりひとりに具体的な思考と行動を迫る、第6章と第7章(「知ること、つながること」および「知を力にするために」)にあると思う。
科学技術または社会、もしくはその両方について、なんらかの漠然とした問題意識を感じている人であれば、知識はなくともとりあえず行動してみよう、なにかできそうだ、というアイディアと勇気を得られるはずだ。
科学技術の専門家は、それ以外のことについては非専門家だ(たいていの場合)。
いっぽう、科学技術の非専門家であっても、必ずなにかしら自分の専門知をもっている。
さまざまな背景、利害関係、思惑をもったひとたちがときにぶつかり合い、ときに融和しながら、各々の知を活かしてなんとかうまくやっていくための「公共」。
その重要性が、断片的に、または抽象的に語られることはあっても、本書ほどまとまって具体的に、それを方法論におとしこんだ論考を見たことはない。
これまで、さまざまな形で市民科学活動に関わっていらした平川氏ならではの説得力で、これが本書の大きな魅力であると私は思った。
疑問・違和感-その「公共」に、科学技術はどう必要なの?/わたしは“がっかり”してない-
ここまで述べてきたとおり、本書から学んだことはたくさんあり、また、勇気づけられもした。
しかし、いくつかの疑問や違和感も同時におぼえた。私の勉強不足や立ち位置の偏りからくるものかもしれないが、あえてここでぶつけてみる。
まず、科学技術(および科学技術の専門家)の果たしてきた役割についての評価が、不当に低いように思った。
科学技術の非専門家をencourageすることを目的としているから、科学技術のあり方について危機意識を高めようとすることは大切であろうと思う。
また、科学技術でできることとできないことがあることに注意を喚起するのも、とても重要だ。
しかし、本書に描かれている「科学技術像(と科学者像)」からは、それらがあまりに問題に満ち、信用ならず、危険なものであるかのような印象のみを受ける。
これがほんとうだとしたら、なんのために、非専門家は科学技術の専門家と対話する必要があるのだろう、非専門家だけで決めていけばいいではないか、とすら思えた。
つまり、科学技術の専門家と対話することで、非専門家にとってどんないいことがあるのかがよくわからなかったのだ。
本書を素直に読む限り、私は平川氏のいう「善い科学」から得られる果実を思い浮かべることができなかった。
これでは、非専門家は、「科学技術の暴走」に歯止めをかけるだけの単なるお目付役にすぎない。しかし、そんな仕事が楽しいだろうか?
また、それは科学技術嫌いと過度な自然信仰に拍車をかけることにならないだろうか?
そして、心ある科学技術の専門家にとっても、浮世離れしたマッドサイエンティストに対するようなまなざしを向けられることは、対話する意欲を著しく削ぐことになるだろう。専門家もまた、市民の一人なのに。
もちろん、そのようなステレオタイプな対立構造が、平川氏の意図するところであるとは思えない。
だからこそ、なおさら、本書における科学技術の不当な低評価を残念に思った。
私がこのように感じるのは、ひとつには、平川氏の問題意識の根っこにあると思われる「科学技術の夢に裏切られた感」を、私が共有できていないからなのかもしれない。
本書の第一章によれば、1964年生まれの平川少年は、アポロがいる月を見上げ、大阪万博に行き、輝かしい未来が科学とともにあると信じていた。そして、その夢から醒める1970年代を体感している。
しかし、1976年生まれの私は、アポロも大阪万博も知らない。科学技術がひたすら「夢と希望」であった時代を知らないのだ。
ものごころついたときには1980年代であり、やがて科学技術よりも土地・資産至上主義のバブル景気、そしてその終焉。
1985年につくば万博があったり、その翌年にハレー彗星が出現したりと、科学技術にわくわくするチャンスはもちろんたくさんあったが、既に時代は、単純な科学技術礼賛のときをすぎていた。
公害の話は学校でも習うほどにポピュラーな社会問題だったし、食品添加物批判やファストフード批判を日常的に耳にし、健康や食べ物の自然志向も始まっていたかもしれない。そして、理科離れも。
そんな時代に育った私は、科学技術の急速な進歩に熱狂した経験はないかわり、その夢から醒めたり、夢に裏切られたりした経験もない。
だからだと思う。どうしても「科学技術(進歩)を無邪気に礼賛すること」への危機感を、平川氏ほど尖鋭にはもてないのだ。
批判されつづけ、萎縮しつつある科学技術しか知らないにもかかわらず、のちに理系に進んで、科学技術でメシを食っている私の心情としては、「それでももっと科学技術を応援したい」に傾く。
自然なお産やホメオパシー、栄養の偏ったマクロビオティック食への傾倒など、昨今の過度な自然信仰の危険性をみればなおさらだ。
科学技術のこれ以上の進歩は必要ないという考え方もあるかもしれない。しかし、進歩を禁じられた科学技術を、誰がどのように維持し、担っていくだろうか。
科学技術はこれからも必要だし、ゆっくりとでも進歩することによって、まだまだいくらでも私たちの社会に新しい可能性をひらいてくれるだろう。たとえ、すぐに役に立つことがなくても。
ただし、科学技術「だけ」ではダメであり、そのために科学技術の公共的ガバナンスが必要である、という点で私は平川氏に完全に同意する。
アポロを知らない「あらかじめ醒めている」世代の私たちでも、それだからこそ、果たせる役割があるはずだ。
また、専門教育を受けてきたけれど、より非専門家に近いところで仕事をしている人たちも、ものごとが「職業科学者 vs 非専門家」の対立構造にならないようにできることがあるかもしれない。
エキサイティングで楽しくて、実り多い公共空間をつくっていくために、とにかく何かしてみたい。そう思わせられる本だった。