「科学的なもののみかた」ってなんだろう、と思っている人も、そこから一歩進んで「科学的なもののみかた」のあり方について考えている人も、それぞれの立場から楽しく読めると思います。
目次は以下のとおり。
第1部 君と僕のリアル
びっくりしてもだいじょうぶ
リアルってなんだ
納得力のある風景
夢の彼方に
物語だけが光速を突破する
ふたたび月と陰謀
そしてふたたびリアルについて
第2部 間奏 テルミン
科学と魔法 創造力と想像力 自由と不自由 科学と神秘 未来
第3部 僕たちは折り合いをつける
水瓶座の時代に
もっとびっくりしても大丈夫
線を引く
頭が固い話
最後は折り合いをつける
最初に本書を読んだとき、とっぴなようですが、吉野源三郎の君たちはどう生きるかを連想しました。
断っておきますが、本書には人生論のかけらも出てきません。。
それどころか、最初から「科学は「生き方」なんか教えてくれない。人生だとか生きる意味だとか、そんな問題は科学で解決できるはずがないし、そう期待するべきでもない」と引導を渡されています。
それなのに、なぜ私は「どう生きるか」について考えたりしたのでしょう。
きくち先生は本書で、科学と神秘のあいだを行ったり来たりしながら、そこに散らばっているさまざまな話題を、とりとめもなく(でも、たぶん周到なたくらみのもとに)取り上げています。
その口調は、洒脱で、やさしくて、冷静で、ときどきめっぽう熱い。
ちょっとふうがわりな親戚のおじさんと並んで歩きながら、あれこれおしゃべりをしているような、そんな楽しい印象を受けました。
たとえば、きくち先生は、まえがきでこう言います。
もし、科学なんて無味乾燥で夢がないと感じている人がいるなら、科学者はあらゆる神秘をなくそうなんて考えていないし、神秘はなくならないってことが伝わればいいと思う。お手軽な神秘はなくなるだろうけどね。逆に、あらゆることがいずれは科学で説明できると信じている人がいるなら、たぶんそれは考えなおしたほうがいいっていうメッセージも少しだけこめてある。
科学は、「そう信じたい」「こんな夢を見たい」と人が思う気持ちに、なかなか希望どおりには応えてくれません。きくち先生のことばを借りれば、「身も蓋もない」ところがあります。
いっぽうで、そんな科学が、人がそれまで想像もしなかった美しい物語を生み出す力をもつこともあります。
また、本書には、客観的事実をはるかに飛び越えることのできる、とほうもなく痛快な人間の想像力が登場します。
物語と事実を混同することさえなければ、どちらからも豊かな実りが得られるはずなのですが、なかなかそれが難しい。
さて、科学と神秘のあいだを散歩しながら、私も思い出したことがあります。
科学も人間の精神の営みのひとつです。そして、そのことに基づいて、他の精神的営為である宗教や芸術と並べて論じられることがしばしばあります。
このような相対化は、おもしろい試みではあるものの、重大なおとしあなももっています。
それは、すべての精神的営為を等価に扱おうとするあまり、科学も宗教も芸術も互いに交換可能であると結論づけてしまうことです。「科学は宗教である」というようなのがそれです。
重なり合う部分もあるかもしれません。しかし、実際には、科学にしかできないこと、宗教にしかできないこと、芸術にしかできないことがたくさんあります。
それを無視して、これらを互いに交換可能なものとして扱うことは、非常に危険です。
それぞれの分野で難題にぶつかったときほど、これらが安易に、根拠もなくごちゃまぜにされてしまうように思います。
たとえば、道徳教育において説得力をもたせようと、根拠なく科学的な見かけを導入する(「水からの伝言」など)ような例があります。
また、科学的な研究の成果を広く伝えようとするあまり、センセーショナルな物語をつくりあげて報道するような例もあります。
このような混同は、まずほとんどが有害なものです(有益な例を私は知りません)。
本書の最後で、きくち先生は「神秘の領分と科学の領分に折りあいをつける」ことについて、丁寧に語っています。
どんな場合にでも、事実と物語を厳密に峻別できるような、万能の方法や基準などありません。
思いどおりの夢が見られないこと、信じていたことが裏切られることは、ときに苦しく、つらいことがあります。
しかし、きくち先生は言います。
夢が失われていたって、実はそれほど悲しくはない。それは絶望じゃなくてむしろ希望なんだと思う。そして、絶望を希望に変えるのは想像力だ。人類はまだまだ遠くまでいけるはずなんだ。
私にとって生きることは、考えることです。
想像力という燃料を絶やすことなく、考え続けることができれば、きっと今よりもっと遠くへいけるだろう。おもしろいことができるだろう。
そんな勇気をもらえる本でした。