こびとづかんと妖怪と「簪を挿した蛇」

「こびとづかん」という絵本がある。

 

 身近なところに住んでいる(かもしれない)、バラエティ豊かでユニークなこびとたちの生態を描いた絵本で、2006年に出版されて以来、子供たちを中心に大好評を博し、関連書籍やゲームソフトなども販売されている。

 「なんか気持ち悪いキャラだなー」と思ってスルーしていたのだけど、うちの子供がハマった。

 子供はいまやすっかり各「こびと」の生態に詳しくなり、「ナントカカントカコビトはこういうところに住んでいて、性格はこんなで、つかまえかたはこうするんだよ」と夢中になって教えてくれる。その話を聞いているうちに、「これはもしかして、私が小さいときにハマった“妖怪”と同じことか」と思い当たった。

 私は、ちょうど、アニメ版ゲゲゲの鬼太郎の第三期(鬼太郎の声は戸田恵子さん)が放映されていたころに小学生だった。

 そしてもちろん、小学館から出ていた水木しげるさんの妖怪本(「妖怪大百科」「鬼太郎大百科」「妖怪百物語」「妖怪大図解」などのシリーズもの)に夢中で読みふけっていた。

 下駄を買ってもらって、その裏打ちのゴムを懸命にすり減らしては、カランコロンという音が鳴るようにして、鬼太郎気分で夏休みの水泳指導に通ったりもした(はなはだしい近所迷惑)。

 ほんとにはいないと思う。でもちょっと、どこかにいるような気がする。

 そんな不思議な「何かたち」とともに暮らした日々は、とても幸福だった。

 それと同じような日々を、今、子供が過ごせているとしたら嬉しいと思う。

 雪の結晶の研究で有名な物理学者の中谷宇吉郎が、昭和21年に、「簪を挿した蛇」というエッセイを書いている。

 詳細はリンク先の全文を読んでいただきたいが、その中に以下のような一節がある。

 

 近代の専門的な教育法のことは知らないが、私には自分の子供の頃の経験から考えて、思い切った非科学的な教育が、自然に対する驚異の念を深めるのに、案外役に立つのではないかという疑問がある。幼い日の夢は奔放であり荒唐でもあるが、そういう夢も余り早く消し止めることは考えものである。海坊主も河童も知らない子供は可哀想である。そしてそれは単に可哀想というだけではなく、余り早くから海坊主や河童を退治してしまうことは、本統の意味での科学教育を阻害するのではないかとも思われるのである。

 いつか紙芝居を利用して児童の教育をやろうとしている会の人が来て、何か案はないかという話があった。目的は紙芝居で科学普及をやりたいというのである。あいかわらず電気の知識とか、飛行機の原理とかを、漫画風に子供にもよく分るように面白くやる案はないかという話で、うんざりした。そういうこともそれ自身は悪いことではないが、もしやるのだったら映画を用いた方がよいので、紙芝居には映画とは別の分野がある。紙芝居が映画と異なる点は、実物の写真を用いなくて絵を用いることと、各画面の時間を相手とその時の雰囲気とに従って勝手に変えられる点にある。その両者ともに、見ている子供たちの想像力を誘発するのに適当な条件なのである。それで紙芝居では電気技術だの機関車だのという野暮な話は取り上げない方が利巧である。妖女か孫悟空を主人公とした夢幻的で物凄じい紙芝居が出来たなら、一度見たいものである。

「電気の知識なんか、紙芝居には勿体もったいないですよ。それよりも孫悟空でもおやりになったら如何いかがです。その方が科学の普及と言ってはどうか分りませんが、将来の日本の科学のためには役に立つでしょう」と返答したのであるが、よく納得はゆかなかったようである。孫悟空に凝って、金箍棒や羅刹女の芭蕉扇をありありと目に見た子供は、やがて原子の姿をも現身の形に見ることが出来るであろう。

 自然に対する脅威の念、とは、「センス・オブ・ワンダー」と言い換えてもいいだろう。

 中谷のいうように、何かを不思議だと思う気持ちがなければ、科学ははじまりようがない。

 不思議だと思ったあとの、その気持ちの推し進め方はともかくとして、「あることについて不思議に思うのは科学的だけど、別のことについて不思議に思うのは科学的じゃない」などという区別はつけられないものだと私は思う。

 子供が何かを不思議だと思う気持ち、その不思議な何かに惹かれる気持ちは、その何かがどういうものであろうと、大切にしてやりたいと思う。