絵本作家ののぶみさんが作詞した、『あたしおかあさんだから』という歌が炎上している。
母親の子育ての我慢を歌った『 #あたしおかあさんだから 』が物議を醸す→対抗して #あたしおかあさんだけど にメッセージが集まる - Togetter
国語の読解的に考えれば炎上した理由は単純だ。
この歌は、「眠いまま朝5時に起きる」とか「大好きなおかずを(子供に)あげる」とか「あたしよりあなたのことばかり」とか、“我慢” と言い換えられそうなことの理由をすべて、「あたしおかあさんだから」にしている。*1
「あたしおかあさんだから」というのは、「おかあさんとはこうする立場の人だから」という意味以外には読み取りにくい。
つまり、この歌は、「おかあさん」というものは子供のために自分のしたいことを我慢する人である、という定義を無批判に(むしろ肯定的に)歌い上げちゃってる、ということになる。
そりゃ炎上必至だよね、ということだ。
それでは、カウンターとしてtwitterで盛り上がったように「#あたしおかあさんだけど」と言い換えればそれで済むのかといえば、それもピンとこない。
このハッシュタグのもとに並んだ主張を見ると、こんなにたくさんの人たちが「『おかあさんがするはずの行動』から外れていそうなこと」を共有しているのか、と思わざるを得ない。
「あたしおかあさんだから」も「あたしおかあさんだけど」も、結局は、『おかあさんがするはずの行動』を決めつけていることにおいては、まったく同じなのである。*2
「あたしおかあさんだから」に反発する人がいるように、「あたしおかあさんだけど」にも反発する人はいるはずだ。
たとえば、私が「あたしおかあさんだけど、弁理士の資格を取ったの」と言ったらどうだろう。自分で書いていても、鼻持ちならない感じがする。
そうではなくて、「あたしがおかあさんになってから」どう変化したのか(あるいはしなかったのか)を歌うのであれば、ずいぶんと印象は違ったのではないだろうか。
おかあさんになってから、もう卒業したと思っていたヒーロー物に再びハマった。
おかあさんになってから、飲み会には出かけなくなったけど、家飲みが楽しくなった。
こんな感じでいくのであれば、おとうさんになった人も、おかあさん・おとうさんにならなかった人も、その人の今をありのままに歌うことができる。
そうやってそれぞれの人が、ありのままの今を、何かのせいにすることなく歌うことができるようになれば、きっと「おかあさんだから」vs.「おかあさんだけど」の争いなんて必要なくなるんじゃないだろうか。