いつもおもしろく読んでいる遙洋子さんのコラムだが、今回の内容には異論がある。(以下、引用文内の()は筆者)
話は、遙さんの講演でのエピソードから始まる。
「人生ひとり(で過ごすこと)も悪くない、とか、介護から逃げたっていい、という」遙さんの講演を聞いた60代の主婦が、遙さんの楽屋を訪れた。彼女は自らの介護体験を切々と話し、「世の中にはこういう嫁もいることを、今後の講演内容に入れてほしい」と要求したという。
「甲高い裏声」で話し始めたというその主婦が、だいたいどんな感じの女性なのか想像に難くないが、よほどすごいおばちゃんだったのだろう。「他者批判を一切許さない高圧的な女性」「すでに(介護から逃げ出して)自己嫌悪で生きている人をさらに踏みつけてでも、自分の自信だけは守りたい人間の強欲さのほうが、私にはおぞましい。」と、遙さんの批判も手厳しい。
遙さんはその女性に、「あなたは素晴らしい、と常々言ってもらわないと容易に壊れる脆弱な自己評価」を読み取る。
そして、異論を受け入れられない彼女のような人たちを批判して、「他人の評価で築いた自信は脆い。自力で捻り出した自信は、他者の評価では、良くも悪くも揺らぎにくい。」と主張する。
何かが引っかかる。
いつもの遙さんの諧謔味が感じられず、狭量な意地悪さが見え隠れする気がするのだけど、それはおいといて、どうもしっくりこない。
遙さんが、自信を「自力で捻り出した」と胸を張るならば聞いてみたい。その自信は、本当に、100%、自力で生み出したものなのですか? と。
賞賛も批判も含めた他人の評価なくして自信を築き上げることなんて、どうやったらできるのだろう。築いた自信の根拠について疑うこともなく、「自力」を誇ることのほうが、私の目には独善的に映る。
確かに、わざわざ遙さんの楽屋を訪れてまで、自分の人生のあり方を認めろと主張する押しつけがましさに、好感をもつことはできない。
しかし、その「甲高い裏声」のおばちゃんは、これまで「他人の評価」を受けてこられなかったからこそ、そのような行動に出たのではないか。
「あなたは素晴らしい」「立派」などと言ってもらえるどころか、彼女の日々の営為そのものが、誰かの目に留まることすらなかったのではないか。
彼女が心のよりどころとしていたのが「姑の感謝の笑顔」と夫の言葉だけで、それが遙さんの推察どおりにうわべだけのものであるとすれば、なおさら彼女は孤独だっただろう。
介護と育児はまったく違うものだが、その負担の部分は女性の「無償の愛」なるものにかかっているという点においてよく似ている。
喜びも多い育児の経験しかない私がいうのは気が引けるが、家族に貢献する女性の営為は、評価されることが本当に少ない。評価という言葉が適切でなければ、省みられると言い換えてもよい。
人生の最後に、「ああ、母さんは偉かったね。立派だったね」と言われることはあるかもしれない。しかし、それまでの長い長い日々、自分の行動が空気のように見過ごされていくことで、女性の心はどれほど摩り減ることだろう。どのように、自己の尊厳を保てばよいのだろう。
他人にその主張を曲げろと強要する「裏声」おばちゃんの強引さは、確かに批判されてしかるべきだ。
しかし、おそらくは遙さんに比べて多くの機会を失ってきただろう彼女に対して、その背景を思いやることもなく、「強欲さがおぞましい」といった感情的な断罪をすることも、同じように批判されるべきだと思う。
私は、このコラムの中で繰り返される「はいはい、あなたは立派」「すでにそちらは"立派"なのだから」といった表現に、遙さん自身がまだ消化しきれていない罪悪感(もしくは後悔)のくすぶりを読む。
遙さんご自身が真摯な介護体験者であることを考えると、この感情的な表現は同族嫌悪ではないかとすら勘ぐってしまう。
介護を引き受けないこと、または引き受けたことを悔やむことに、罪悪感や自己嫌悪の感情を抱くことが悪いと言っているのではない。
自分の中に根ざしたネガティブな感情を処理しきれないからといって、「すでに介護に身を捧げて生きてきてしまった」人のパーソナリティを必要以上に攻撃するのは、子どもっぽい八つ当たりではないか、と思うのだ。
すでにそれを引き受けて生きてきた人たちには、「逃げてもいい」という選択肢は残されていないし、遙さんが提示するような「新しい視点」に救われることもない。
遙さんが刃を向ける相手は、裏声おばちゃんではないはずだ。