吐き出したかった塊

 特にテーマを決めずに、日記のようにブログを書いてみようと決めたものの、大きなことが気にかかっていると、何気ない小さなことがなかなか書けなかったりする。

 何よりもまず、胸からゴポッと吐き出してしまいたい大きな気がかりといえば、この国の政治をめぐる状況だ。

根拠なき行政

 気がかりがはっきりと形になり始めたのはもう2年近く前で、いちおうこのブログにも書き留めてはいた。
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 このときに、組織的犯罪処罰法改正案(テロ等準備罪法案)の強引な採決で抱いた不安はまったく解消されることなく、昨年、2018年6月には働き方改革関連法案がむりやり成立した。
 なかでも、定額働かせ放題とも批判される高度プロフェッショナル制度(高プロ)については、根拠とされるヒアリングにおいて、後付け・隠蔽・改ざん等の数々の重大な欠陥があったことがわかっている。*1
 多くの識者をはじめとして、国民から強い批判の声が上がったにもかかわらず、与党の議員たちは聞く耳を持たなかった。

 昨年末には、さらに、厚生労働省の「毎月勤労統計」に不正があったことが発覚した。*2
 勤労統計の資料のうち、2004年〜2011年の分は、既に紛失・廃棄されてしまったというから開いた口が塞がらない。*3

 それだけではなく、基幹統計の少なくとも4割に、間違いなどの問題があったことまでわかってきた。*4

 行政の根拠となる統計がまったく信頼できないものであったという、とんでもない事態になっている。

 行政の根拠が揺らぐといえば、きわめて残念だったのが、東京電力福島第一原発事故後の放射線基準を決めるための根拠として参照されてきた、宮崎・早野論文における瑕疵である*5
 個人情報の取り扱いに重大な不備があったこと、それについて、伊達市と著者らからはいまだに十分な説明がないこと、さらに論文中の計算についても不自然な点があると指摘され、それについても十分な説明がないままであること。
 事故後の早野先生たちのご活動には敬服する点も数多くあっただけに、「残念」以外の言葉が出てこない。

根拠よりも優先されているもの

 客観的データに見せかけたいいかげんな根拠に基づいて、「労働時間規制を外したいという労働者のニーズがある」「労働者の賃金は極めて高い上昇率を示している」「除染には個人線量低減効果がない」といった主張がされ、それに基づいて行政の方針が決定される。

 結局のところは目的ありきで、その目的に合わせた根拠が作られ、構築されているにすぎないのではないかという疑念を拭うことができない。

 しかし、こうした流れを作り出している人たちが皆、悪人の顔をしているかというと(財務大臣はともかく)そういうわけでもない。
 政治家も、官僚も、研究者も、ひとりひとりはその「目的」が、国民を(または自分が国民だと認めるものを)正しく幸せな方向に導くはずだと信じているのではないか。

 目的さえ正しければ残りは瑣末にすぎない、と信じているのでもなければ、たとえば統計不正が「さほど大きな問題ではない」という言葉は出てこない。*6

 少し前の話になるが、高校副教材にも使われたいわゆる「妊娠のしやすさ」グラフの改ざん問題も思い出される。*7
 ここでも、「正しい(と考える)知識を子供たちに伝えたい」「妊娠の時期を適度に早めさせたい」という目的を持った医師・教育者・官僚・政治家たちには、いささかの悪気もなかったことだろう。その目的に比べれば、性に関する自己決定権の優先度はきわめて低かったことだろう。*8

 しかし、何をどう大切に思うかの優先順位を決める主体は、あくまで国民ひとりひとりであるべきだと私は思う。
 今は、そのことがあまりにないがしろにされてはいないか。
 大切に思うべきことの優先順位を、国という大きな何かに勝手に決められてしまうことが、あまりに多くはないか。

 政治において大きな力を持っている人たちと、その人たちに都合のいいデータを出してくれる人たちによる、善意に満ちたウソに振り回されて生きるのはもうたくさんだ、という思いを、ここ数年、私は吐き出したかったのである。