高校生の頃に読んだ、加藤周一の『日本人とは何か』を、学校の行き帰りに読んでいる。
あのころ、私は何を読んでいたのだろう。
とても新鮮に思える。
30年から40年前に書かれたもののはずなのに、
今の日本と、それから日本人が抱えている問題が、すべてあてはまる。
言いかえれば、それらの問題が、なにひとつ解決されていないということだ。
くわしくは、そのうち「本棚」に書くとして、ふたつだけ。ちょっと未消化。
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もののあわれを代表する「源氏物語」の書かれた平安朝についての記述:
「税金の収納が悪く、京都の真中に、強盗・窃盗の類が絶えず出没し、
神主や坊主までが加った時代である。
一方公卿は、大納言でも字の読めないのがいる始末で、
酒を飲んで人民を斬り殺す以外に趣味のない男さえ横行する状態であった。
こういう時代の、もののあわれ、または風流、または物語は、一部の特権的な人間が、現実を逃避するための道具にすぎなかった、と考えるのが常識であろう」
これは、現代の日本もまったく同じことのように思える。
日本の文化の二重構造は、中世の昔からずっと、かわらないものらしい。
学力低下問題だろうが永田町の論理だろうが、このあたりから考え直さないといけないような気がする。
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次。
明治以前と以後との文化の断絶;「伝統の断絶」についての記述。
「日本の大衆の意識が、自覚的に西洋化に傾いたことはかつてなかったし、今でもない。
そこには文化の断絶ではなく、持続の面が根強いのである」
近代化即西洋化という考え方をしてきた知識階級を産んだのは、もとより帝国大学である。
市民的であるより前に、官僚的であるように教育されてきた知識階級は、
大衆との意識上のつながりが稀薄であると加藤氏はいう。
「戦争前までを振り返って眺めると農村には停滞しかなかった。
都会の知識階級は、直接に西洋思想を輸入することで忙しかった」
21世紀に入った今だって、まったくそのとおりではないだろうか。
停滞が、農村から日本全国に拡がっているだけで。
とりあえず、自分の受けてきた教育と、自分の取ってきた行動を、
もう一度ふりかえってみる必要がありそうだ。
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それにしても、最近、魅力的な論客がいないなあ。
切れる人には心がないし、熱い人には論理がない。
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本日の飲み会
今日はこれから、院生会の追い出しコンパである。
あ~。急いで電気泳動しなければ。
電圧あげちゃおっかな~♪