感情をもった人間同士がコミュニケーションするにはどうしたらよいのか。
一見異なる主張をしているように見える2つの記事から引用。ちなみにどちらも医療系。
《その1》
週刊医学界新聞の「ストレスマネジメント その理論と実践」より。
「主治医を変えてくれ」と怒鳴り込んできた患者のAさんと、それに対応する看護師のBさんの会話を、こう分析する。
会話の最初からAさんは感情をぶつけているのに対して、Bさんは、その感情には目を向けず、言葉に反応し、説明に終始しています。Bさんの怒りに向き合うことは、相手の感情に巻き込まれ、相手をさらに感情的にしてしまう可能性が高いため、冷静に説明に終始するほうが賢明な対応だという思いがあったのかもしれません。しかし、現実には、Bさんが冷静に説明しようとすればするほど、Aさんの怒りは収まるどころか、高まる一方でした。
余談ですが、これ、夫婦喧嘩にも、また会社などでのコミュニケーションにも当てはまりますな。
そして、問題の本質を、次のように抉る。
今回の会話でいちばんの問題は、Aさんの感情から逃げている点です。もちろん日頃からクレームの多い患者が詰所に怒鳴り込んでくれば逃げたくなる気持ちはわかりますが、そこから逃げていても何も始まりません。まず、その怒りはどこから来るのかに目を向けることが大切です。「主治医を変えてほしい」という訴えの背景にある怒りはどこから来るのか。そこに反応しなければ会話は成立しません。
そうか、「冷静な説明」と自負していたものは、実は相手の感情から逃げるための隠れ蓑に過ぎなかったのか。
忙しさにかまけて、相手の感情に無頓着になり、本当の意味での「傾聴」を忘れてしまった結果、相手の怒りを助長し、さらなる忙しさの渦に巻き込まれていませんか。そんな悪循環を断ち切るきっかけが、相手の感情に耳と心を傾けて聴くことなのです。
ふむふむ、確かに相手の感情から目を背けてはいけない・・・って、いやまてよ。
これだと、傾聴する側の負担があまりに大きくなる場合はないだろうか。
で、次の話。
《その2》
日経メディカルオンライン小松秀樹が語る「医療に司法を持ち込むことのリスク」より
人間の感情は個人の心の中に限定された現象である。攻撃を受ける側にも感情がある。感情をそのまま社会的コミュニケーションに持ち込むと、当然ながらコミュニケーションそのものが成立しなくなる。社会的コミュニケーションに感情を持ち込むためには、感情を社会で扱えるような形にする必要がある。
社会で扱えるように整理された感情はたぶん感情というようなものではなくなるが、このような作業がないと社会は成立しない。日本のメディア、司法、政治は感情の社会化ということをもっと意識して考える必要があるのではないか。
大きな問題を、卑近な問題にあてはめて恐縮。
しかし、人が2人向かい合えば、それは既に小さな社会と言える。特に、「攻撃を受ける側にも感情がある」ということは、そのことに思いを致すことのできる能力のある人間は、心すべき点ではないか。