『不完全な世界で「子どもを護る」ことについて考える』(川端裕人、中央公論3月号)を読んだ

川端裕人さんの『不完全な世界で「子どもを護る」ことについて考える』(中央公論3月号)について。

例の「東京都青少年の健全な育成に関する条例」を題材に、根拠に基づいた防犯や、市民社会においてわたしたちが行動するために考えるべきことなど。

キーフレーズのひとつは、

いずれにしても、リスクはゼロになりえず、どこで折り合いをつけるかというのが我々のテーマだ。

体感治安が悪くなっているということは、わたし自身も感じている。

わたしが育った時代よりも、ずいぶんと息苦しいような、親として気をつけるべきことが多すぎるような、そんな感覚。

川端さんの論文はまさに、「何を、どこまで?」について、どう考え、行動していったらよいのかを論じている。

医療問題や食の問題にもつきまとう「ゼロリスク志向」の弊害がここでも登場する。

つまり「本来あってはならないこと」だけど、決してゼロにすることはできないリスクをどう扱うかだ。

護るべきものがある方々に、ぜひ読んでいただきたい。

以下は、わたしのつぶやき。

医療問題にしても、食の問題にしても、お上まかせで安心を求める段階をとうに過ぎている問題は増えるいっぽうだ。

それなのに、これらの問題に主体的に取り組むべき市民社会の構成が、あまりにも弱々しいんじゃないか。

社会を構成するマジョリティのサラリーマンたち(男女とも)は、こういった生活の諸問題に割く時間がぜんぜんないように見える。

本来、さまざまなリスクコミュニケーションを積み重ねていかなくてはいけない生活の場に、彼らの存在がほとんどない。

つまり、企業社会と市民社会が分断されているようにわたしは見える。生産労働と再生産労働の分断と読み替えれば、目新しくもない課題だけれど。

生活の諸問題はお上か「家にいる人」に任せておけばよい、というシステムで、たぶん企業社会は動いている。

これまでは、それである程度の経済合理性は追求できてきたかもしれないけど、そろそろそうはいかなくなっているはずだ。

生活の諸問題に取り組むことを、企業社会の外側に追いやってきたツケは、たぶん企業社会の成り立ちをも揺るがすかもしれない。

語り合い、考えていくためには、市民社会にはまだまだメンツが足りない。多様性があった方がいい。

早い話が、長時間労働どうにかしようぜ、ってことです。