選択肢を増やすということ

 従来からマジョリティを占めている生き方に背を向けて、別の生き方をえらぼうとすることがある。

 たとえば、女性が働きながら子供を育てようとすることであったり、男性が家庭で多くの時間をすごそうとすることであったり。

 従来の価値観とは異なる価値観を許容することを社会に要求するとき、しばしば「選択肢を増やそう」という言い方がされる。

 「選択肢を増やそう」ということばが伝えようとしているのは、「自分(たち)が許容してほしい価値観は、あなたたちの価値観と対立するものではないのだ、皆が自由にいろいろな生き方を選べるようになることは悪いことではないはずだ」というメッセージだ。

 ぱっと見たところ、非のうちどころのない理屈に思えて、わたしもこの言い方を好んで使っていた。でも、「選択肢を増やそう」という主張が、大きな説得力をもって受け入れられた場面をあまりみたことがない。なぜだろう、ということが気になっていた。

 規模の大きな社会や組織のレベルで考えれば、多様な価値観をうけいれて維持するのには、いかにも多大なコストがかかりそうな印象だ。選択肢を増やせという主張が嫌われがちなのも当然に思える。(ほんとうにコストがかかるのか、均一な価値観で社会や組織を構成することにリスクはないのか、ということについては別途検討の余地がある)

 ただ、それだけではなく、社会や組織の個々の構成員レベルでも、つまり、日常顔を合わせる人たちとのつきあいの中でも、「選択肢を増やそう」という主張はいまひとつ響きが悪いような気がする。

 個々人のレベルで考えてみると、新しい選択肢が増えたとき、その選択肢を増やすためにずっと努力してきた人は、すんなりそれを選択することができる。準備もできていただろうし、身の回りの環境も整えていたかもしれない。

 でも、それまで特にその選択肢に興味のなかった人は、「さあ、これを選択していいよ」といわれても、実際のところ、そうしづらい場合も多いのではないか。

 そのうえ、新しい選択肢が増えてもなお、従来からある選択肢をえらびつづけようとする人は、その選択をするための理由づけを迫られることになる。自分で自分に問いかけざるを得ないかもしれないし、他人から「なぜまだその選択肢をえらぶのか」と問われる場合もあるかもしれない。特に、新しい選択肢が提示された当初は、どうしてもそちらのほうが魅力的に見えがちでもある。

 それまでは「これしかなかったから」で済んだものを、新しい選択肢が出てきたばかりに、それまでの自分の生き方の価値判断を強いられる。それほど大袈裟なこととは受け止められない場合であっても、「なんかちょっとめんどくさい」と思われることは多そうだ。

 そして、「めんどくさい」が集まると、けっこうな力になる。

 こういったとまどいや、なんとはなしの反発も、「選択肢を増やそう」という主張にいまひとつ説得力が伴わない理由だったりしないだろうか。

 もっとも、こういうとまどいや反発は、新しい選択肢の導入期、過渡期に特有のものでもありそうだ。

 さまざまな選択肢がいっぺんに提示された中から、好みのものを自分の意思だけでえらぶことができるようになり、そしてどの選択肢をえらんだ人でも、それなりに満足して暮らしていけるようになる、という状態は理想的ではある。

 ただ、その理想郷にたどりつくまでの間には、よけたり蹴飛ばしたりしないといけない小さな石ころが、「選択肢を増やされる側」にも、けっこうたくさんあるのかもしれない。その石ころの種類が、「選択肢を増やそうとする側」に見えているものとは違うだけで。

 変革を要求しようとする立場からは、既存の状態から利益を得ている人たちが「選択肢を増やすことで生じる不利益」を主張することは、なかなか受け入れがたいところがある。

 それがあまりに理不尽な主張であれば、断固として異を唱えつづける必要もある。

 でも、自分の描く理想の未来が、ほかの人にとってもよいものであると信じるのであれば、「選択肢を増やすことで生じる不利益」を主張する人たちがどけなければいけない石ころも、自分の足もとの石ころと一緒にどけてあげる、というやり方もあるのかもしれない。

 あなたの石ころは、なんですか? なんだったらそれ、わたしが一緒にどけましょうか?

 ……と、いつも笑顔で言えたら、いいのだけど。