いろんなことがらについて、すぐれた洞察を見せてくれる人がいる。
いろんなことがらについて、トンチンカンな思いこみばっかり言ってる人もいる。
どちらも最初は、論理が飛躍していたり、特別な事象をおもいきって一般化していたりする「仮説」にすぎないのだけど、結果としての洞察とトンチンカンをわけるものはなんだろうなあ、とよく考える。
軌道修正できるかどうか、は大きそうだ。
「もしかしてこうではないか」と思ったことについて、「ほんとうにそうなのか?」と考え続けること。観察し続けること。ほかの人の話を聞き続けること。
そして「思っていたのと違った」ということを受け入れて、また考えること。
だから、よく見ると、すぐれた洞察を見せてくれる人も、ときどきはトンチンカンなことも言っていたりする。
でも、ある程度の正しさや確度が証明されてからでなければモノを言ってはならない、みたいなことになると、あまりおもしろくない。
論理の飛躍がいけないんじゃなくて、飛躍したまんま、そのあとをほっぽっとくのがいけないんだろう。