「弱者」が黙るとき

親が、子どもを叱る。


「そんなことをするなら(言うなら)、もう知らないよ?」

「○○しちゃうけど(してあげないけど)、いいんだね?」


子どもは、黙る。


親は、自分の「教育的」な脅しが「効いた」ことに満足する。

しかし、それは本当に「効いて」いるんだろうか?


子どもは、黙る。


ここで、「いいよ」「かまわないよ」と言ったら、親が傷つくことを知っているから。

子どもは既に親の力に対抗できると知らない親が、かわいそうだから。


子どもは、泣く。


ほんとうに伝え合いたいのはそんなことじゃない、と思って泣く。

「脅し」という手段でコミュニケーションを遮断されるのが、つらくて泣く。

大好きな親が、自分は強者であると思い上がっていることが、かなしくて、泣く。


親は、子どもが「反省」し、親の正しさに屈服したことに満足してほほえむ。

「そんなに泣かなくてもいいんだよ」と手を差し伸べる。

自分が子どもを憐れんでいると思っている。


しかし、ほんとうに憐れまれているのは、どちらなんだろう。


相手が思い通りにならなければ、愛してやらない。

相手の思い通りにはならないけれど、相手を愛している。


ほんとうに愛しているのは、どちらなんだろう。