今日思うこと

ハンセン病訴訟の熊本地裁判決に対して、国は控訴しないことを決めたと言う。
まさかとは思ったが、よかった。
人として真っ当な判断がなされたことを、心から喜ぶ。

このようなまともさを、もう長いこと見ていなかったような気がする。
みんながあらぬ方へ目をそらし、目的のあるようなないようなdivertissementにうつつをぬかし、予定終了になるのを待っているような異常さが、この国を冒していた。
尋常でないことが当たり前になって、あきらめることが癖になっていた。
これから少しずつ、まっすぐになっていくことを願う。善悪不二としても。

同時に、もっと早く、元患者の方々の苦しみを取り除けていたら、とも思う。
96年まで隔離政策が取られていたということは、政府の不作為であるとともに、私たちの不作為でもある。
その事実に、今の今まで気がつかなかった私を、私は恐ろしいと思う。
知らないこと、気づかないことの罪は、私にも平等にある。
きっと私は今日も、そういった罪を重ねているはずだ。

私が物心ついたころには、すでにハンセン病は不治の病ではなくなっていた。
あと数十年もすれば、今回の訴訟の重みは忘れ去られるだろう。
関係者の方たちの中には、一刻も早く苦しみを忘れたいと願う方もいるに違いない。
そのような方々が痛みをもって、私たちに不作為の罪を教えてくれた。
そのことは決して忘れないようにしたいと思う。

そういえば、遠藤周作氏の「私が・棄てた・女」という小説にも、ハンセン病が扱われている。
1963年に執筆されたもので、当時、この病気が人々に与えた絶望と恐怖がわかる。
戦争を知らないのと同様、もちろん私はその苦しみの100分の1もほんとうにはわかっていないはずだ。
でも、このような私にも、遠藤氏が生涯のテーマとした、苦しみや痛みにただ寄り添うということ、
そのことは、伝わる。

私はもっとも身近な人の痛みに寄り添えているだろうか。
こんなに言葉を羅列することになんの意味があるだろうか。

伝えたいこと、伝えなければならないことには、かならず何かの形を与える必要がある。
これまで私の選んできた形は、ずれていたり、まったく逆であったり、大仰であったり、小さすぎたりした。
笑いたいときに笑え、泣きたいときに泣ける、この上ないよい時代であるにもかかわらず。

少しでも適切な形を選んでいけるよう、成長していきたい。