実家というもの

帰省していた人々が、さまざまな食料を持って、研究室に戻ってきた。
お茶部屋のテーブルの上が、とてもリッチな休み明け。
わが内分泌学研究室では、今季は暖房設備も整った。
食べ物がたくさんあって、寒くない、という幸せを、しみじみとかみしめる。

さて、私は自宅から通っているので、帰省すべき実家のある人たちが、ときどきうらやましくなる。
「実家に帰らなきゃ」
というセリフを、一度言ってみたいのだ。

「いなかの実家」というものを持たない私にとって、みんなが言う「実家」とは、ふだんの研究生活からかけ離れた、パラダイスのように見える。
そこにさえ帰ってしまえば、物理的に仕事はできないし、完全に世界を切り替えることができそうだ。

実状を聞いてみると、次から次へと食べ物を与えられて太った、だの、帰って一日目はいいけど、二日目以降は話も尽きて退屈だ、だの、いろいろと文句はあるらしい。

でも、そんな文句を言う人たちの目が、一様にやさしいのを見ると、やっぱり「実家」がうらやましくなる。

そんなことを思いながら帰宅すると、母が「毛玉取りコーム」なる新兵器を持って待ちかまえていた。
金属でできたマイルドなヤスリのようなもので毛玉をこそげおとす、というシロモノだ。
電動の毛玉取り器との性能を比較したくなり、さっそく大量の毛玉つきのセーターをひっぱりだす。

最初は力の入れ加減がむつかしかったけれど、鉛筆削りの要領で、慣れればおもしろいように毛玉が取れる。
母と二人で、らっきょうの皮をむくサルのように毛玉をとり続けた結果、お気に入りのセーターは、みごとに往年の美しさをとりもどした。

そんなことをしながら、ろくでもないことをしゃべり散らしていたら、「いなかの実家」でなくても、帰る家がある、というのは悪くないなと思った。

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本日の宝物

朝、隣の幼稚園の子どもたちが、まだ残っている雪で遊んでいた。
てんでに、いろんなことを発明している。
どうしても物かげが好きらしい連中が、植え込みの陰にしゃがんで、なにやらひそひそ話している。

「これ、化石だよ」
「ほんとだ、化石だ!」

なに、化石? 聞き捨てならない。
私は、さりげなく近寄って、彼らが注目しているあたりを見た。
だが、どれだけ目を凝らしても、私には雪に埋もれた石しか見えない。

「よし、これはオレらのたからものにしよう」
「うん、たからものだ」

東京では、雪がつもるのは、どきどきするほど珍しい。
その美しい雪の中にあると、ふつうの石も特別に見えるのだろうか。