『アナと雪の女王』と『マレフィセント』感想(ネタバレあり)

アナと雪の女王

 音楽も映像も美しくていい映画だった。

 

 ストーリー展開に無理があるというような趣旨の批判も見かけたが、そもそもミュージカルやオペラは、荒唐無稽な筋立てと、美しい歌や音楽と、その間に揺曳する真実の感情のひらめきとを楽しむものだから、ストーリーの厳密な整合性は求めなくてもいいのではないかと思う。

 とはいえ、メッセージ性は非常に強い作品である。

 日本語吹き替え版とオリジナル版を見比べると、特にエルサについての印象がかなり違うのがおもしろかった。

 オリジナル版の方のエルサは、いかにも英語圏の現代女性らしい悩みをもつ女性として描かれており、抑圧からの解放と愛との相克、というテーマがストレートに伝わってくる。

 いっぽう、日本語吹き替え版のエルサは、オリジナル版に比べて、より「育ちのよいお嬢さん」らしい雰囲気が強く感じられた。こちらのエルサは、抑圧というものにあまり自覚的ではないように見える。しかし、自分が生きたいように生きていいのかどうかについて悩む、それなりの数の日本の女の子や女性たちにとっては、とても身近なエルサを描くことに成功していると思う。

 「女が幸せになるために男はいらない」という視点から語られることがしばしばある映画ではあるが(たとえばここ)、それがメインのメッセージであるとは私は思わない。

 映画のクライマックスで、アナがクリストフとエルサを見比べた後、エルサのもとへ走るシーンがある。これを見て、アナがクリストフ(異性の恋人候補)とエルサ(同性の姉)とを天秤にかけ、後者を選んだように感じた人もいるのかもしれない。

 しかし、ここでアナがした選択は、クリストフの愛によって自分の命を助けられるか、それとも自分を犠牲にしてでもエルサを助けるか、という究極の選択だったのではなかっただろうか。

 つまり、アナが天秤にかけたのは男と女ではなく、自分の命とエルサの命だったのだと思う。

 この映画では、お姫様と王子様との愛、お姫様と氷売りの男との愛、お姫様と女王様との愛、氷売りの男とトナカイとの愛、氷売りの男とトロールとの愛、雪だるまとその遊び仲間だった人間との愛など、(どれが「真実の愛」であるかは別として)さまざまな愛のあり方が描かれている。その豊かさを、「女に男は必要か」という問題だけに押し込めてしまってはつまらない。

マレフィセント

 「女に男はいらない」というメッセージがストレートに打ち出されているのは、『マレフィセント』である。

 「男の居場所はもうないのか」というようなジェンダー論的視点からの批評がされるなら、『アナと雪の女王』より、むしろこちらの方かと思うが、意外なほど、そのような議論の盛り上がりは見られない。

 『マレフィセント』はアンジェリーナ・ジョリー主演の実写映画で、1959年に公開されたディズニーのアニメ映画『眠れる森の美女』をもとにしている。

 オーロラ姫に、糸車の針で指を刺して死ぬ(永遠の眠りにつく)という呪いをかけた魔女がマレフィセントであり、原作の『眠れる森の美女』では悪の権化のような存在として描かれている。

 しかし、映画『マレフィセント』では、彼女は生まれながらの悪い魔女ではない。屈託のない妖精の少女であったマレフィセントは、後に王となるステファン青年に手ひどく裏切られ、身も心も傷ついた恨みから、強大な力を持つようになる。マレフィセントは、ステファン王の娘であるオーロラに呪いをかけたものの、オーロラを陰から見守り続けるうちに、母代わりのような存在としてオーロラに慕われるようになる。

 深い眠りに落ちたオーロラを救うのは、王子のキスではなく、呪いをかけたことを心から後悔したマレフィセントのキスである。やがてマレフィセントはステファン王を倒し、オーロラと共に王国を築き上げ、オーロラをその国の女王とする。

 プリンセスが王子と結婚してめでたしめでたし、というオリジナルのストーリーを全否定して、女性どうしの絆を称揚するつくりとなっているが、衝撃の斬新さ、というほどの印象はなかった。

 何か似たものがある、と思い出したのが、菊池寛の『真珠夫人』だ。

 『真珠夫人』は、貧しい男爵の令嬢であった瑠璃子が主人公である。美少女・瑠璃子とその恋人の青年は、ひょんなきっかけから、金満家の中年男・荘田の怒りを買う。荘田は瑠璃子の父親を陥れ、恋人との間を引き裂き、瑠璃子を自分のものにしようとする。瑠璃子は激しい怒りを抱きながら荘田のもとに嫁ぐと、荘田の心をもてあそんで復讐を果たし、荘田の死後は数々の青年たちを手玉にとって、自身は処女のまま、男性という存在に復讐を果たしていく。

「妾(わたくし)、男性がしてもよいことは、女性がしてもよいと云ふことを、男性に思ひ知らしてやりたいと思ひますの。男性が平気で女性を弄ぶのなら、女性も平気で男性を弄び得ることを示してやりたいと思ひますの。妾(わたくし)一身を賭して男性の暴虐と我儘とを懲(こ)らしてやりたいと思ひますの。男性に弄ばれて、綿々の恨みを懐いてゐる女性の生きた死骸のために復讐をしてやりたいと思ひますの。本当に妾(わたくし)だつて、生きた死骸のお仲間かも知れませんですもの。」

 妖婦とまで呼ばれるようになった瑠璃子が真実に愛したのは、荘田の娘(瑠璃子にとっては義理の娘)である美奈子だけである。

 美奈子は、自分がひそかに愛していた青年が瑠璃子の求婚者であることを知り、深く傷つく。それを知った瑠璃子は、青年の求婚を断る。そして、瑠璃子と美奈子は互いを最愛の存在として認め合うのだが、そのときの瑠璃子と美奈子のやりとりが、なかなかすごい。

「お母様! 貴女は、決して妾(わたくし)にお詫をなさるには、当りませんわ。本当に悪いのは、お母様ではありません。妾(わたくし)の父です。お母様の初恋を蹂躙した父の罪が、妾(わたくし)に報いて来たのです。父の犯した罪が子の妾(わたくし)に報いて来たのです。お母様の故(せゐ)では決してありませんわ。」さう云ひながら、美奈子はしく/\と泣きつゞけてゐたが、「が、妾(わたくし)今晩、お母様の妾(わたくし)に対するお心を知つてつくづく思つたのです。お母様さへ、それほど妾(わたくし)を愛して下されば、世の中の凡ての人を失つても妾(わたくし)は淋しくありませんわ。」

 さう云ひながら、美奈子は母に対する本当の愛で燃えながら、母の傍にすり寄つた。瑠璃子は、彼女の柔かいふつくりとした撫肩を、白い手で抱きながら云つた。

「本当にさう思つて下さるの。美奈さん! 妾(わたし)もさうなのよ。美奈さんさへ、妾(わたし)を愛して下されば、世の中の凡ての人を敵にしても、妾(わたし)は寂しくないのです。」

 二人は浄い愛の火に焼かれながら、夏の夜の宵闇に、その白い頬と白い頬とを触れ合せた。

 マレフィセントは瑠璃子であり、オーロラは美奈子であり、ステファン王は荘田であると思って読むと、『マレフィセント』と『真珠夫人』はぴたりと重なる。

 結末こそ違えど、両作品はいずれも、女性どうしの強い絆の上に築かれた愛の王国を至高のものとして描いているように見える。

 『真珠夫人』が発表されたのは1920年で、今から90年以上も前である。ちょうど日本で婦人問題に関する論争が熱を帯びていた時代だったことを考慮しても、菊池寛の着想の新しさが光る。

 しかし、わざわざ『真珠夫人』を引用するまでもなく、「男性を必要としない女性」をヒロインにした物語は、ディズニー映画以外ではそれほど珍しいものではない。それもあってか、ジェンダーの観点からの話題の盛り上がりはさほどでもないように見える。(善悪とは何かというテーマを描こうとしたにしては、マレフィセントがあまりにも早く「いい人」になってしまっており、その点の踏み込みは浅い。やはり、男女の恋愛以外の「究極の愛」の形を提示することがメインテーマであるととらえるべきだろう)。

 『マレフィセント』が、ジェンダー論的な盛り上がりを見せない別の理由としては、ヒロインが強すぎることがあるかもしれない。戦闘体のマレフィセントは、以前、アンジーが演じた『トゥームレイダー』のララ・クロフトを思い出させる。

 そして、私もそうだが、観客はもはや「男より強いヒロイン」の存在だけでは、さほど衝撃を受けなくなっていると思う。特に、ヒロインが見るからに強そうな存在である場合には。

 その点『アナと雪の女王』のヒロインたちは(強い魔力をもつエルサでさえ)「見るからに強そう」ではない。そのようなヒロインたちの物語に「男性はいてもいなくてもいい」と読み取る余地がある方が、「見るからに強そうなヒロインが、特に男性を必要とせずに幸せになる」物語よりも、ある人々にはショッキングだということはありそうだ。

 しかし、『アナと雪の女王』にしても『マレフィセント』にしても、ジェンダーの観点を離れて楽しんでいる観客は多い。

 2009年の『プリンセスと魔法のキス』あたりから、ディズニーは「典型的なプリンセス像」と格闘しているように見えるが、ディズニーより先に、観客は「典型的なプリンセス像」の呪縛から解き放たれつつあるような気がする。