『花子とアン』の時代の翻訳にまつわる著作権事情

もらった本を気楽に翻訳して出版する花子、それでよかったの?

 NHKで放映中の朝の連続テレビ小説花子とアン』は、タイトルのとおり、『赤毛のアン』の翻訳者として知られる村岡花子氏の生涯を題材としたドラマです。

 先週、ついに花子が『赤毛のアン』の原書である『Anne of Green Gables』と運命の出会いを果たし、ドラマもクライマックスが近づいてきました。

 このドラマでは、花子がいろいろな人から英語の本を手渡され、その魅力を日本の子供たちに伝えようと翻訳に取り組むシーンがたびたび登場します。

 後に義弟となる村岡郁也さんからは『The Prince and The Pauper』(『王子と乞食』)を、そして女学校時代の恩師であるスコット先生からは、『Pollyanna Grows Up』(『パレアナの成長』(または『パレアナの青春』))と、『Anne of Green Gables』(『赤毛のアン』)を、という具合に。

 今の日本では、海外の著作物を日本語に翻訳して公開する場合、原則として、その著作物の著作者または著作権者から許諾を得る必要があります。

 しかし、このドラマでは、花子はもらった本の翻訳にすぐ取りかかっていて、特に許諾等を気にかけている様子はありません。

 ええ? ドラマとはいえ、花子、そんなに気楽に翻訳していいの?

 郁也さんもスコット先生も、「これ素敵だから訳して」みたいなノリでいいの?

 結論から言うと、「この時代は、だいたいそれでいいことが多かった」けど「それぞれ事情はちょっとずつ違う」ということになりそうです。

 『花子とアン』の時代は、国際的な著作権保護について大きな動きがあった時代です。『花子とアン』に登場した本を手がかりに見ていくと、著作権に関する歴史の中でも、とてもおもしろい時代であったことがわかります。

 

国際条約はどうなっていた?

 著作権がどのように保護されるかは、その国の法律がどうなっているかで決まるのが原則です。

 しかし、国によって、著作権に関する規定はさまざまですから、自分の国の著作物に関する権利が、ほかの国では保護されない、といったことも起こりえます。

 そこで、さまざまな国の間で、統一的な基準で著作物に関する権利を保護しよう、という動きから「文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約」(通称・ベルヌ条約)が生まれました。 *1

 ベルヌ条約は、1886年に作成されて以来、数度の改正を経ていますが、どのバージョンでも、著作者が自己の著作物を翻訳する権利を占有することが定められています。日本は1899年に、ベルヌ条約に加盟しました。

 つまり、『花子とアン』の当時である20世紀初め、日本を含むベルヌ条約加盟国の間では、他国の著作物を自国で翻訳・出版する場合、原則として、著作者の許諾を得る必要がありました。

 

 それなら、花子はやっぱり、気楽に無断で翻訳しちゃいけなかったのでは? と思いきや、当時、日本で効力を持っていたベルヌ条約には、特別な規定があったのです。いわゆる「10年留保」です。

 「10年留保」とは、簡単にいうと、オリジナルの著作物が刊行されてから10年以内に翻訳・出版されなければ、誰でも自由に翻訳・出版してよい、というものです。

 つまり、刊行から10年以内に、誰かが正式に翻訳権を取得して翻訳・出版したことがある作品でなければ、その作品を誰でも自由に翻訳・出版してよかったわけです。 *2

 なお、アメリカ合衆国は、ずっとベルヌ条約に加盟しておらず、1989年にようやく加盟しました。したがって、『花子とアン』の時代、日本とアメリカとの間での著作権の保護については、ベルヌ条約は関係がありません。

 しかし、この時代(1906年以降、おおむね日米開戦まで)、日本とアメリカとの間では「日米間著作権保護に関する条約」(いわゆる日米著作権条約)が結ばれていました。

 日米著作権条約では「翻訳の自由」が定められていたため、アメリカで発表された作品は日本で自由に翻訳・出版することができました。その逆も然りです。 *3

 このあたりの話は、日本雑誌協会 日本書籍出版協会50年史 第4章Aに詳しいです。

 それでは、ドラマに登場した3つの作品について、具体的に見てみましょう。

『王子と乞食』について

 郁也さんが花子に手渡した『The Prince and The Pauper』(マーク・トウェイン作)は、1881年にカナダ(自治領カナダ(英連邦内の自治領))で最初に出版されました。 *4 その後、1927年、村岡花子氏による翻訳書『王子と乞食』が日本で出版されています。

 1881年の時点で、ベルヌ条約はまだ作成されていません。したがって、日本で『The Prince and The Pauper』を翻訳・出版しても問題なさそうに思えます。

 しかし、ベルヌ条約は、原則として、条約が発効する前に創作された著作物でも、条約の発効時に著作権の保護期間が満了していなければ、条約に従って保護されるべきであることを定めています(第18条)。

 したがって、日本がベルヌ条約に加盟した1889年以降にカナダでもベルヌ条約が発効していれば、条約に従って考える必要がありそうです。

 しかし、カナダでもベルヌ条約が効力を持っていたとしても、『王子と乞食』が日本で出版されたのは、1889年から10年以上後の1927年ですから、「10年留保」が適用されて、何の問題もないでしょう。

 ところで、このころのカナダの著作権事情は、カナダの独立の歴史と深く関わっています(Sara Bannerman "The Struggle for Canadian Copyright, Imperialism to Internationalism, 1842-1971")。

 ベルヌ条約が作成された当時のカナダはいわゆる「自治領カナダ」であり、英連邦内の自治領でした。

 カナダは、最初は単独でベルヌ条約に加盟したわけではなく、イギリスが1886年ベルヌ条約に調印したとき、イギリスの植民地として、ベルヌ条約に加盟しています。

 1889年、カナダ議会は新しい著作権法を審議します。この法律には、外国の著作物に関する権利がカナダ内で強いものとなりすぎないようにするための規定が含まれていました。これは、ベルヌ条約が要求する要件を満たさないものでした。そこで、カナダ政府は、この新しい著作権法を議会で通過させるためには、ベルヌ条約の破棄(脱退)が必要であることをイギリス政府に申し入れたのです。

 これをきっかけに、イギリスとカナダの間で、そしてカナダ内の保守派と革新派との間で、激しい議論が生まれました。また、ベルヌ条約の同盟国の間でも、カナダに追従する国が出てくることをおそれて、なんとかカナダを脱退させまいとする動きも生じ、議論はやがて国際レベルに発展していきます。

 その後、ベルヌ条約の改正に関する数度の国際会議や、イギリス帝国とその植民地との会議において、カナダは粘り強い交渉を続けました。

 やがて、第一次世界大戦において、イギリスを含む連合国側に立って功績をあげたカナダは、戦後、著作権法の譲歩案をイギリスに提示します。また、カナダ内でも、国際的な地位の上昇を考慮して、ベルヌ条約に合わせた著作権法の整備へ向けた機運も高まっていきます。

 そして、カナダが外交権を得た後の1928年、カナダは単独でベルヌ条約に加盟しました。その後、1931年のウェストミンスター憲章により、カナダは独立国家となったのでした。

『パレアナの成長』について

 さて、『花子とアン』に戻りましょう。

 女学校時代の恩師であるスコット先生が、花子に渡した最初の本が『Pollyanna Grows Up』(エレナ・ホグマン・ポーター作)です。 *5

 『Pollyanna Grows Up』は1915年に米国で出版され、その後、1930年に、村岡花子氏による翻訳書『パレアナの成長』(現在のタイトルは『パレアナの青春』)が日本で出版されました。

 つまり、『Pollyanna Grows Up』が、米国のみで出版された本であれば、これは翻訳の自由を定めた日米著作権条約が結ばれた1906年より後に出版された本ということになりますから、条約に基づいて、日本でも自由に翻訳してよい本に当たります。

 ところで、ベルヌ条約には、非加盟国の国民がその著作物を加盟国でも同時に出版すれば、ベルヌ条約の保護を受けることができるという規定があります(第3条(1)(b))。

 しかし、仮に『Pollyanna Grows Up』がいずれかのベルヌ条約加盟国で同時出版されており、ベルヌ条約による保護を受けるべき本であったとしても、花子が翻訳書を出版したのはその15年ほど後になりますから、ほかの翻訳者が既に翻訳を出版していたりしなければ、「10年留保」で問題ありません。

 したがって、花子がスコット先生から原書を受け取ってすぐに翻訳を開始したとしても、特に不思議はなさそうです。

赤毛のアン』について

 スコット先生が花子に渡した2冊目の本『Anne of Green Gables』(ルーシー・モード・モンゴメリ作)は、1908年、米国(ボストンのL.C. Page & Company)で出版されました。

 その後、1939年に、宣教師のミス・ショーから原書が村岡花子氏に手渡され、村岡氏は戦火をくぐりぬけながらこれを翻訳し、1952年、翻訳書『赤毛のアン』が日本で出版されたとのことです。

 本国での出版から40年以上経ってから初めて、日本で翻訳が出版されたことになります。また、その間に第二次世界大戦を経ているため、条約の効力等を詳細に検討することにはあまり意味がないように思います。

 戦後、占領下の日本では、外国の著作物の翻訳を日本で出版するための交渉等も困難であり、出版に際しては占領軍の厳しい統制を受けていました。著作権をめぐる混乱もさることながら、日本全体がとてつもない混乱と激動の中にあった時代です。

 それを乗り越えて、ようやく『赤毛のアン』が三笠書房から刊行されたのは、サンフランシスコ平和条約が発効し、日本が再び独立国として認められた直後の1952年5月のことでした。

 村岡花子氏の孫である村岡恵理氏の『アンのゆりかご』(『花子とアン』の原案)によれば、戦後5年を過ぎた1950年、三笠書房の編集者の小池喜孝氏が、村岡花子氏のもとを訪れて、女性読者を視野に入れた何か新しい作品はないか、と相談したそうです。当時の三笠書房は、復刊した『風と共に去りぬ』が大ベストセラーとなり、それに続く翻訳文学を探していたようです。

 小池喜孝氏の相談を受けた村岡氏は、既に『Anne of Green Gables』の翻訳を終えていたものの、新しいものではないし、『風と共に去りぬ』のような強烈なドラマもない、と考えて、最初のうちは小池氏に「ありませんよ」とそっけなく答えていたそうです。 しかし、翌年、村岡氏はあたためていたアンの翻訳原稿を小池氏に渡し、出版に向けた動きが始まります。

 このあたりはドラマとしても非常におもしろいところだと思います。これから、『花子とアン』でどのように描かれていくのか、楽しみにしています。

*1:この動きには、『レ・ミゼラブル』等を書いた大文豪、ヴィクトル・ユーゴーらが大きな役割を果たしています。

*2:ちなみに日本では、1971年の著作権法改正まで、この規定が有効でした。

*3:「日米間著作権保護に関する条約」第2条『両締約国の一方の臣民又は人民は他の一方の臣民又は人民が其の版圏内に於て公にしたる書籍、小冊子其の他各種の文書、演劇脚本及楽譜を認許を俟たずして翻訳し且其の翻訳を印刷して公にすることを得べし』

*4:マーク・トウェインはアメリカ人の作家ですが、著作権の保護に非常に熱心で、カナダにおけるこの作品に関する著作権の保護のために、カナダに居住権を得ています。(参考

*5:ドラマで映っていた原書のタイトルは『Pollyanna』(パレアナシリーズの第1作である、邦題『少女パレアナ』)でした。しかし、その後に映し出された花子の翻訳原稿は『Pollyanna Grows Up』に基づいたものでした。また、実際の村岡花子氏も、『Pollyanna Grows Up』の方を『Pollyanna』よりも先に翻訳・出版したようです。ドラマで映った原書は、単純なミスであったか、視聴者に「パレアナの本である」ことを印象づけるための演出であったか、どちらかであろうと思います。

(『Pollyanna』の本邦初訳は、おそらく大正5年(1916年)に日本基督教興文協会から出版された弘中つち子氏の『パレアナ』ではないでしょうか)