本当に○○な人だったら……

 本当にやる気がある人なら、このくらいがまんできるはずだ。

 本当に賢い人なら、このように行動するはずだ。

 といったような、要するに「本当に○○だったら、△△できるはずだ(××しないはずだ)」という言い回しをしばしば耳にすることがあるけれど、これがかねがね大キライだった。

 「△△できないかぎり、本当の○○じゃないんだよ」

 という狭量さ、押しつけがましさを感じるからだ。

 この言い回しがキライすぎるので、いろいろと悪口を考えてみたのだけれど、そもそも「本当にやる気がある」とか「本当に賢い」ってどういうことなんだろう。

 その状態こそが「本当」であると誰が決めたのかといえば、それは主張している当の本人にすぎない。

 確実にいえるのは、

「このくらいがまんできる人が、本当にやる気がある人だ(と私は思う)」

「このように行動する人が、本当に賢い人だ(と私は思う)」

 程度のことではないのか。

 それだといまいち説得力に欠けるので、この命題の逆をとって、「本当にやる気がある人であれば、このくらいがまんできる」という主張になったのではないかと推測する。

 しかし、たとえもとの命題が正しいと仮定しても、逆は必ずしも正しいとは限らない(論理学の法則どおり)。その上、もとの命題の正しさも証明されていない。

 つまり、「本当に○○だったら、△△できるはずだ」という主張は、結局なにも根拠のあることを言っていないのだ。

 根拠のあることを言っていないわりに、妙な説得力のある言い回しではある。

 誰かが勝手に定義しただけのものにすぎない基準を、あたかも絶対的に定義されたものであるかのように見せかけているからかもしれない。

 なにか架空の絶対的な定義のようなものを振りかざして、その定義にあてはまらないものは「本当の○○ではない」と切って捨てるような感じが、どうにもわたしは好きになれないのだった。

 もちろん、この言い回しを使う人が「よし、架空の絶対的な定義を振りかざして、当てはまらないものは仲間はずれにするぞ!」という意図をもって使っていることはまずないだろう。

 だから、ふだんこういった言い回しに出くわしたら、ああ、主張の内容を強めるためのレトリックとして使われているんだなあ、くらいに思って聞き流すことにしている。

 ただ、話題の種類や、自分の心の弱りようによっては、単なるレトリックにすぎないこの言い回しに、予想外のダメージを受けることがある。

 自分が「本当の○○ではない」と否定されたくないとき。でも、強気で抵抗できないとき。……「本当に子供を愛しているのなら、仕事なんか続けていないはずだ」みたいに言われたとき。

 そういったときに、「本当に○○だったら、△△できるはずだ」という主張はなにも根拠のあることをいっていないのだ、ということを自分に思い出させるために、ここに書き残しておくことにする。