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紙の日記をつけ始めた

 1月も20日を過ぎたところで、あけましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願い申し上げます。

 気がつけば、子供もこの春から小学校4年生。
 小学生の親を3年間やってみて、予想よりはるかに多くの貴重な経験をすることができています。
 仕事と親業の両立についても、自分のキャリア形成についても、そして家族と地域のあり方についても。
 これらについては、今年、おいおい書いていくことができればと思います。

 さて、私もずいぶん大人になったなと思うことのひとつに、感じたことや思ったことをすぐにネットに垂れ流さなくなった、ということがあります(決してブログを更新していない言い訳ではあ……る……かもしれませんが、それだけではありません)。
 とはいえ、まったく何もアウトプットしないと、「考える」ということ自体がおろそかになり、漫然と本やネットの上澄みをすくって終わり、ということになりがちでした。

 そこで1月(正確には正月明け)から、紙の日記をつけ始めています。

 私の背中を後押ししてくれたのは、この記事
kobe-nagasawa.co.jp
 でした。

 小学生~高校生くらいまでの間は、わりとマメに大学ノートなどに日記をつけていたのですが、博文館さんの当用日記を使うのは初めてです。
 書き始めたら止まらなくなるだろうと思って、たっぷり書ける大型当用日記にしてみたのですが、これが大正解。その日にしたこと、読んだ本、食べたもの、子供のできごと、所感などをしっかり書くことができます。
 一方、一日あたりのスペースが限られているので、さほど身構えずに、つぶやくように、「これは書いておこうかな」程度のことを気楽に書き留めておくことも可能。文字制限のあるツイッターのようなものですね。 
 とりあえず10日以上は続いています。

 3日以上続いたことに気をよくし、そして、やっぱりしっかり考えたいテーマについては制限のないスペースもほしいな、とも思い、つい自由日記も買い足してしまった始末。こちらは「補遺」的に使っています。

 今年は、紙で考え、その後に公表する、みたいな形を試してみようかと思っていますが、果たしてどうなりますか。

 今年もあたたかく見守っていただければ幸いです。

この夏、子供と見に行ったお芝居2つ

 私が子供のころから親しんでいる繁華街が池袋なのですが、池袋のある豊島区は演劇の街でもあります*1。そんな池袋で、子供向けの楽しいお芝居を2つ見てきましたよ。

子供のためのシェイクスピア 「ロミオとジュリエット」@あうるすぽっと

 
 子供のためのシェイクスピアは、もう20年くらい続いている人気のシリーズです。「子供のための」と言いながら、子供騙しでない、きわめて本格的なシェイクスピアの舞台を見ることができます。

 今回は「ロミオとジュリエット」。少し早めに着席したところ、カンパニーの皆さんによる歌と踊りのサービスがあって、子供はびっくり。大喜びでした。

 舞台はとてもシンプルで、古い学校にあるような木の机と椅子を組み替えることだけによって装置が作られていきます。
 わずか9人の役者さんたちがそれぞれ何役も演じるのがみごとですが、10人目の役者かもしれない操り人形(シェイクスピアそっくり!)もまた、チャーミングな食わせものでした。

 笑劇的要素は現代的で軽妙なやりとりにアレンジされています(「マーキューシオが塩をまーきゅーしお」と言ったダジャレもまじえて)。しかし、悲劇として大切なシーンでは、子供には難しいだろうと思われる言葉でも、美しい言葉がしっかりと使われています。

 決闘シーンも見せ場ですが、迫力ある華麗なアクションで、子供もくぎ付けになっていました。
 
 有名なラストシーンは、ジュリエットがはっきりと自分の胸を刺してその場に倒れ伏す、というものではなく、とても印象的な演出がされていました。

 もう全国ツアーも終わったようなのでネタバレをしてしまいますが、暗い墓の中、操り人形のシェイクスピア(?)に短刀を渡されたジュリエットは、次第に大きくなるトルコ軍隊行進曲に合わせて、舞台奥から差してくる強い光に向かって歩き出すのです。
 その光の中では、ロミオが子供のように嬉しそうに手を振り、飛び跳ねながら、ジュリエットを待っています。
 ジュリエットが歩みを進め、音楽が最高潮に達したとたん、舞台は一気に暗転。もう一度明るくなったときには、ロミオとジュリエットが石像のような姿で向かい合っています。

 死後のジュリエットとロミオに救いを与えたとも見えます。しかし、その救いの光景はまた、死に瀕したジュリエットが見た幻影のようでもあります。たとえ幻影でなかったとしても、そのような救いが現世では得られなかったということは、観客の誰もが知っています。
 救いの光景の楽しさや輝かしさが増すほど、悲劇性が強く感じられるものとなっていると思いました。

「気づかいルーシー」@東京芸術劇場シアターイースト

 もう、誰もむかなくていい。もう、誰もむかれなくていい。万歳、万歳!
Amazon.co.jp: 気づかいルーシー: 松尾スズキ: 本

 松尾スズキさんの絵本「気づかいルーシー」をもとにつくられた音楽劇です。
 
 ルーシーというかわいい少女が、おじいさんと馬と一緒に楽しく暮らしていたのですが、あるとき、馬と出かけたおじいさんは馬から落ちて死んでしまいます(死んでいない)。
 ルーシーが悲しむだろうと思った馬は、おじいさんの皮をむいてかぶり、おじいさんのふりをして家に帰ります。
 ルーシーは、そのおじいさんが馬であることにマッハで気づきます。しかし、馬の気づかいを無駄にしてはいけないと気をつかって、だまされたふりをし続けます。中身だけのおじいさんは、二人に気をつかってその様子を見守ります。そして……?!

 という、とんでもなくヘンテコなストーリーなのですが、そのヘンテコさをよくぞここまで生かして素敵なお芝居にしてくださったものだと思いました。
 どちらかといえば大人向けのテーマとシュールな設定にもかかわらず、子供の好きなもの(ギャグ、かけあい、歌、下ネタ、怖いもの、キモいもの)全部入りという素晴らしさ。

 音楽劇なので、楽しい歌がたくさん出てくるのはもちろん、なんと、舞台上にいろいろな楽器が置いてあって、音楽家さんの田中馨さんと森ゆにさんが、最初から最後まで生演奏してくださるのです。実に贅沢。
 
 そして、どのキャストも、「この方でなければ」というハマりっぷり。

 この上なくルーシーらしいルーシーの岸井ゆきのさんの元気なかわいらしさ。
 ちょっと残念なイケメン王子の栗原類さんの王子っぷり。
 様々な役を演じた上に、最後にあっと驚く役として出てくる川上友里さんと山口航太さんの大活躍。
 いろんなものをかぶったりむいたりかぶったりして文字通り大汗をかきつつ、子供たちの人気を集めた馬の山中崇さん。
 そして、ずっとむかれたままでかわいそうなのに、ダンスでは素晴らしい動きのキレを見せつけたおじいさんの小野寺修二さん。

 客席の子供たちも、もちろん大人も、終始大爆笑していて、実に楽しい舞台でした。
 
 

*1:毎年九月には、「池袋演劇祭」も開催されます。

「小1の壁」についての個人的経験

 ここのところ私以上にスプラトゥーンにハマってる畏友 id:kobeni_08 が、「結局、『壁は塗って登る』言いたいだけちゃうんかーい」という素敵な記事next.rikunabi.com
を書いていたので、子供がもう小学校3年生になった私も、ちょっと「小1の壁*1」について思い出してみました。
 ちなみに、子供は地元の公立小学校に通っています。

実際、「小1の壁」はあったか

 実際のところ、「壁」というほどの大変さではなかったように(当時は)感じました。

 公設の学童保育クラブが学校内にあり、しかも預かり時間が、基本午後6時まで、延長は午後7時まで可(直前の連絡でもよい)という環境だったので、保育園のころとさほど変わらないお迎え時間で済んだことが大きかったのだと思います。また、子供も学童保育クラブにとても馴染んでいました。
 
 また、子供の学校の持ち物や連絡についても、
・学校からの配布物はすべて、連絡帳と一緒にファスナー付きの「連絡袋」に入れて持ち帰るよう指導されている(プリント類がランドセルの底でぐちゃぐちゃになるようなことがない)
・連絡帳は児童が書いたら先生がチェックしてくださる
・図工等で必要になる材料や集金については、遅くとも1週間前には知らせていただける(基本的に、月初めのクラス便り等に書いてある)
・下校時間や行事予定を含む月間予定表が、毎月初めに配られるクラス便りや学校便りに書いてある
など、かなり行き届いた配慮が学校側からされているので、負担になりませんでした。

 PTA活動も、負担でないと言えばウソになりますが、共働き家庭が比較的多い地域のためか、わりとスムーズに運営されていて、楽しく有意義に活動できていると思います。地域とのつながりが強くなったメリットもかなり感じています。*2

 ……といった感じだったので、「小1の壁コワいコワいどんだけ大変なの〜」と身構えていたわりに(むしろ身構えていたからこそ?)、拍子抜けというくらい、低い壁に感じられました。

それでは、保育園→小学校の変化は楽勝なのか

 楽勝か、と言われると決してそんなことはなく、むしろ、「公的なシステム」がどうであろうと自分(夫婦)と子供とでなんとかしていかなくてはいけないあれこれが大変だったように思います。

 まず、kobeniさんの記事にも書かれていましたが、子供が精神的に一気に成長すること、子供どうしの人間関係が複雑化することで、子供に向き合う時間が格段に増えました。
 べったり一緒にいたり、長時間話したりする時間もそうですが、何より、少し距離を置いたところで、見るともなく見ていて、何かあったら(ありそうだったら)さりげなく声をかけたり手を差し伸べたりする、というような「待ち」の時間がとても増えます。
 この「待ち」の時間を取れるように開き直ってしまうまでが大変でした。
 もっとも、開き直ってしまえば、もう幼児ではなくなりつつある子供と一緒に悩んだり、喜んだり、成長していくことができるという経験が得られるわけで、これは「乗り越えてよかった壁」だったと思います。

 また、実務的な話としては、登校班の付き添い、保護者会・面談出席、PTA活動、宿題や家庭学習のケア、持ち物管理、習い事のケア(それに関連する人の手配含む)、お友達づきあいのあれこれ、等々を、私が一手に引き受けることになったので、その負担増はかなり大変でした。
 これについては、「夫に当事者意識ややる気がない」というようなわけでは決してなく、基本的に小学生周りのあれこれが圧倒的な女性社会で運営されていて、男性が入るには敷居が高すぎるというのが最大の問題なのだと思います。
 そして、先生やほかの保護者、地域の方々とのつながりを日々、夫婦揃ってメンテナンスしていく、というのは相当に労力が必要です。どうしても、メインの窓口となる夫婦の片方(我が家の場合は私)に集約したほうが、少なくとも短期的には効率的になってしまうのです。

 こういった、「公的なシステム」がどうであろうと自分(夫婦)と子供とでなんとかしていかなくてはいけないあれこれ、というのが、実はいちばん考えていておもしろいテーマだなと最近は思っています。
 大変だからなくしたらいい! というわけでもなく、なくしてしまったら困るから問答無用で文句は許さない! というわけでもないあれこれ、と言い換えたらいいでしょうか。
 そういうあれこれを、いろんな角度から、いろんな人があーだこーだ言い合っていくのをたくさん聞けると、そのうち何かいい知恵が出たりしないかな、と思ったりしています。

 
 

*1:なお、Twitter等で言葉の定義がちょっと紛糾していましたが、「小1の壁」はこの記事で書かれているような主に(共働き)親の問題、「小1プロブレム」は子供が学校にうまく適応できないという主に子供や学校の問題、と理解しています。

*2:去年からは本部役員をやっていますが、そのうち詳しく書くことがあるかもしれません

岸政彦「断片的なものの社会学」

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 朝日出版社第二編集部ブログの連載を楽しみに読んでいました。その連載の内容に、いくつかの書き下ろしなどが加えられたものが本書です。
 
 社会学者の岸政彦さんが、フィールドワークの中で聞き取ってきた人々の語りやエピソードのうち、理解も解釈もすり抜けてこぼれ落ちた、しかしそれでもなお印象的な、数々の「断片」があつめられています。

 社会学者として、語りを分析することは、とても大切な仕事だ。しかし、本書では、私がどうしても分析も解釈もできないことをできるだけ集めて、それを言葉にしていきたいと思う。

 読後感を一言で表すのがとても難しいのですが、なんとも不思議な心地よさがある本です。その心地よさはどこから来るのでしょう。

 社会学者のお仕事には及びもつかないレベルながら、私は私の日常において経験したことがらについて、自分なりの分析や解釈を日々行って生きています。
 ただ、その分析や解釈の多くは、「このことがらにはこういう特徴があるから、この箱に入れよう」と手っ取り早くラベルをつけて、手持ちの類型にむりやり放り込もうとする作業でしかありません。
 どの類型にも押し込められるべきものではないことがらや、分類作業の手をすり抜けてこぼれ落ちたことがらもたくさんあったはずです。
 そして、何かの折に、そういったことがらのどれかをふと思い出し、それをゆっくりと手の中であたためて大事に眺めていることができなかったことに、なんとはなしの悔恨や痛みのようなものをおぼえ、また忘れていく、というようなこともあったように思います。

 本書で岸さんがあつめた「断片」は、当然のことながら、私が忘れ去っていた(見ないことにしていた)ことがらとはまったく違うし、重なるところもなさそうなものばかりです。
 でも、なぜか、岸さんが再現して語り直した「断片」を聞くことで、私が何かを忘れ去っていた悔恨や痛みが慰められたような気持ちになります。
 本書の不思議な心地よさは、その慰めから来るものなのかもしれません。

WordPressからはてなブログに引っ越しました

 これまでWordPressで運用してきた本ブログですが、管理がめんどうになってきたため、はてなブログさんのお世話になることにしました。

 はてなダイアリーからWordPressに移ったものの、結局またはてなさんに出戻ってまいりました。

 過去の個別記事のURL等が変更になり、ご不便をおかけすることもあるかと思いますが、ご容赦ください。

 今後ともどうぞよろしくお願いいたします!

 なお、ブログの引越しにあたっては、webtan.clearclear.jp
 を参考にさせていただきました。ありがとうございます。

ランペドゥーザ島の海綿

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 昨夜、NHKで放送されていた『地球イチバン「世界一透明すぎる海の秘密~イタリア・ランペドゥーザ島~」』という番組を見て以来、ずっと海綿のことを考えている。

 ランペドゥーザ島は、イタリアの南の端、アフリカにとても近いところにある。海が透明すぎて舟も浮かんで見える、という絶景で有名なところだ。

 番組では、この海に特別な透明さをもたらした原因を3つほど考察していた。

 1つめは、遠浅で深海からの栄養分が運ばれてこず、また川も流れ込まないため、海水中の栄養分が少なく、プランクトンも少ない環境であること。

 2つめは、海底の砂が、近くの石灰質の岩が削り取られてできた真っ白な砂で、しかも比重が重いため、まきあげられてもすぐに沈んで海水の透明さが保たれること。

 そして3つめは、この海にたくさん棲んでいる海綿が、海を浄化しているのではないかということ。

 その海綿がどんなやつなのか、何をしているのかが、どうにも気になってしかたない。

 貧栄養環境の海に適応した動物といえば、サンゴ(造礁サンゴ)である。

 色とりどりのサンゴが棲息する熱帯の浅い海には、魚などの生き物もたくさん棲んでいるが、実は栄養分(栄養塩)が少ない。栄養塩に乏しい海でサンゴが大繁殖できるしくみについてはまだ謎が多いらしい(田中泰章,海の研究(OceanographyinJapan),21(4),101-117,2012)。もっとも、サンゴと褐虫藻共生関係が重要であることはよく知られている。

 サンゴと褐虫藻は、海水中の少ない栄養塩を上手に協力しあって利用しつつ、サンゴは褐虫藻にすみかを提供し、褐虫藻光合成で作った有機物(炭素源)をサンゴに提供している。サンゴの呼吸等によって、その炭素源は海水中にも放出され、それをまわりの生き物が利用する。

 こうして、透明なサンゴ礁の海は、栄養塩に乏しいにもかかわらず、ゆたかな生き物に満ちているのだ。

 一方、テレビで見た限り、ランペドゥーザ島(のあの有名な透明な海)にはサンゴは見当たらなかった。調べた限りでも、サンゴ礁はないようである。地中海の石灰岩はほとんどサンゴ礁由来だと聞いたことがあるから、石灰質の岩でできたランペドゥーザ島も、ずっと昔はサンゴ礁だったのだろう。今のランペドゥーザはサンゴ(造礁サンゴ)の棲息に適した環境ではないのかもしれない。

 でも、海綿は棲んでいる(それほど多くはないようだったが、海綿のまわりを泳ぐ魚たちの映像も映っていた)。もしかして、この海綿たちがサンゴの代わりのような存在なのだろうか。

 同じ地中海のギリシャも海綿が有名だが、このあたりの海綿はみんな似たようなやつらなのだろうか。そして、かつてサンゴ礁を形成したサンゴたちが、海綿に取って代わられたりしたのだろうか。

 海綿にも共生微生物がいることはよく知られているが、ランペドゥーザ島や他の地中海沿岸の海綿の共生微生物が、サンゴにおける褐虫藻みたいな役割も果たしているとしても不思議ではない。

 そういうことって誰か研究してないのかな、と調べているうちに、東大の山室真澄先生のブログで、バイカル湖の海綿について書かれている記事に行き当たった。

「この海綿達こそが、貧栄養なバイカル湖でなぜ魚類などがの動物がたくさん住んでいられるかの鍵を握っているのではないかと思います。」

バイカル湖の海綿 - Limnology 水から環境を考える

 同じ貧栄養環境であるランペドゥーザ島(や、その他の地中海沿岸地域)に棲む海綿とバイカル湖に棲む海綿との間に、何か共通点はないか気になるところである。これらの海綿が、貧栄養環境でないと生きていけないものなのか、富栄養環境でも生きていけるものなのかも気になる。

 このあたりのことには詳しくないので、これまでにどんなことが明らかになっているのか、詳しい方がいらしたら教えてくださると嬉しいです。

明けましておめでとうございます

未分類

 昨年一年は、例年にも増してあっというまに過ぎ去ったように思います。

 公私にわたって大変お世話になり、ありがとうございました。

 今年は、弁理士としては3年目、知財の仕事をするようになってからは8年目。仕事の幅を広げ、新しいことにも臆せず挑戦していく年にしたいと考えています。

 家庭では、娘が4月から小学校3年生になります。

 昨年1年間で心身共に大きく成長した娘が、このまま健やかな毎日を送っていけるように、安心して帰ってくることのできる居場所をつくっていきたいと思います。

 末筆ながら、新しい年が皆様にとってますます良い年になるようお祈り申し上げます。

 本年もなにとぞよろしくお願いいたします。