読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

悩ましき朝ごはん

「ドーナツだけの朝ごはん」はダメ?

子どもの朝ごはんについて、こんな記事が話題になっていました。

headlines.yahoo.co.jp

はてなブックマーク - 子どもの朝ごはんは「3日連続でドーナツ」――今どき母親たちの“トンデモ朝ごはん”に共感の声も (週刊SPA!) - Yahoo!ニュース

このニュースについて、著名な教育者であり、また安倍内閣が設置していた教育再生会議の委員なども務められた陰山英男先生も、ツイッターで以下のようなコメントをしていらっしゃいました。

「ドーナツだけ食べる」ような朝食が、「朝ごはんを食べない」のと同じ程度に、学習に対して悪影響を及ぼす、というショッキングな内容です。

私も子どもをもつ親として、どのようなデータに裏付けられているのか、大変気になるところです。
同じように気になった方がほかにもいらして、データのありかを陰山先生に質問してくださったところ、「川島隆太 朝食」で検索してみてほしいとのことでした。


「ドーナツだけの朝ごはんはダメ」の根拠を調べてみた

さっそく「川島隆太 朝食」でGoogle検索してみたところ、いくつかの記事がヒット。
中でも詳しいのが、公益財団法人 学校給食改善協会の『すこやか情報便 特集号』(PDF)でした。

この『すこやか情報便 特集号』には、東北大学加齢医学研究所の川島隆太先生による、「早寝早起き朝ご飯の大切さ」というテーマの講演内容が収録されています。

「ドーナツだけ食べる」ような朝食の害悪と関連しそうな話は、4ページあたりから始まります。
ここでは「バランスのとれた朝食のメニューがなぜ大切か?」という話題で、「ブドウ糖のとれるおにぎりだけ食べても脳は働かない」といった内容が主張されていました。

ここで根拠として示されるデータは、川島先生たちのグループが出されたものではなく、「2年前に日本臨床栄養学会で発表された意外なデータ」とのことで、以下のグラフが示されていました。

f:id:pollyanna:20170428142513j:plain
(公益財団法人 学校給食改善協会『すこやか情報便 特集号』より引用)

このグラフは、日本臨床栄養学会雑誌 29: 35-43, 2007より改編されたものとのことです。
調べてみたところ、その日本臨床栄養学会雑誌の論文は、大塚製薬株式会社 佐賀栄養製品研究所の樋口先生らによる「朝食欠食および朝食のタイプが体温, 疲労感, 集中力等の自覚症状および知的作業能力に及ぼす影響」というタイトルの論文のようです。

論文のサマリーが一般社団法人 日本糖尿病療養指導士認定機構のウェブサイトで公開されていました。
朝食欠食および朝食のタイプが体温,疲労感,集中力等の自覚症状および知的作業能力に及ぼす影響(PDF)

このサマリーによれば、低体温、疲労感などの不定愁訴、知的作業能力などの事象に対し、朝食欠食および朝食のタイプがどのような影響を及ぼすかについて、健常成人男性 20 名(平均 33 歳)を被験者として、無作為化比較試験で調べられています。
そして、特に、作業の集中力に関して、以下のグラフが示されています。

f:id:pollyanna:20170428144147j:plain
(CDEJ News Letter 第20号 2008年10月 より引用)

樋口先生らは、朝食として
①洋風パン食(食パン、ゆで玉子、ハム、サラダ、ヨ-グルト:387kcal)
②市販栄養調整食品(カロリーメイトブロック(大塚製薬(株)):400kcal)
③具なしおにぎり(375kcal)を摂取したときと、
④朝食抜き
の4条件について比較しています。

一見してわかるとおり、樋口先生らが示したグラフは、洋風パン食または市販栄養調整食品(カロリーメイトブロック)をとった場合は、具なしおにぎりのみ食べた場合や朝食抜きの場合にくらべ、作業への集中度に対して同程度の改善が見られるということを示すものとなっています。

川島先生が改編されたグラフには示されていませんが、洋定食の代わりにカロリーメイトブロック(のような栄養調整食品)だけでもいいということのように見えますね。

実際、その後、2011年に、大塚製薬株式会社と川島先生は共同で、朝食の栄養バランスと脳の活性化に関する研究をされていますが、ここで朝食として効果があるとされているのは栄養調整食品でした*1

本当に大切なのは「リジン」なのか

ところで、上記の講演の中で、川島先生は、ブドウ糖源のおにぎりだけをとっても脳が働かない(ように見える)ことについて、ブドウ糖の代謝に関わる必須アミノ酸のリジンに着目していらっしゃいます。

具体的には、「このアミノ酸(引用者注:リジン)が枯渇すると、実はブドウ糖をいくら摂っても体の細胞はブドウ糖を使えないのです」「米たんぱく質と小麦たんぱく質にはリジンの含有量が極めて少ないため、米だけ食べても脳が働かなかったのかもしれない」と推察されています。

これは栄養学からの推論で、実際にリジンが効いているかどうかについては確かめられていないようですが(もし確かめられていたらごめんなさい)、私はこの分野は専門ではないので、いくつかの疑問がわきます。

元の研究で、同程度に効果があるとされた洋風パン食と栄養調整食品に、リジンはそれぞれどれくらい含まれているのか
そもそも、ブドウ糖を代謝するために必要なリジンはどれくらいか
リジンは体内でそれほど枯渇しやすいものなのか。(朝起きたら枯渇している、というようなものなのか)
そして、常にブドウ糖源とリジン源とを一緒に摂取しなければ、脳によい影響は出ないものなのか
もっというと、朝食のタイプが作業に与える影響(そのような影響が確かにあるとして)の原因は、朝食に含まれる栄養素だけで説明がつくのか

どなたか詳しい方に教えていただけるとありがたいです。

理想の「早寝早起き朝ごはん」を求めて

さて、おおもとの「ドーナツだけの朝ごはんは何も食べないのと同じでダメ」という陰山英男先生のお話に戻ります。

陰山英男先生は、上述したような川島隆太先生のお考えに基づいて、ドーナツはブドウ糖源とはなってもリジンが足りないので「ダメ」と判断されたのでしょう。

ですが、これまで見てきたように、陰山先生、そして川島先生のお考えの根拠となる研究では、何もたくさんの種類のおかずのある食事でなくても、1種類の栄養調整食品さえとれば、朝ごはんとしては十分なのです。
つまり「ドーナツだけの朝ごはん」はダメだけど、「栄養調整食品だけの朝ごはん」はよい、ということになります。

ですが、陰山先生も川島先生も「栄養調整食品さえ食べればいいよ」とはおっしゃいません。

特に川島先生は、先に引用した『すこやか情報便 特集号』にまとめられている講演の中でも、朝ごはんのおかずの数を増やすよう呼びかけています。
それどころか、朝食のおかずの品目数と脳の発達との相関関係(因果関係ではありません)を調べた結果のみから、「学力を含めて、『子どもたちの生きる力』の全部を支えている『脳という器』が、朝ごはんのおかずの数が少ないと、発達していない」とまで言い切っています。

栄養学的な実験データからは「朝ごはんは主食に加えておかずがあった方がよい」「栄養調整食品だけの朝ごはんでも十分」の二つの結論が導けるにもかかわらず、「朝ごはんのおかずの数を増やそう」という主張のみを強調するのは、「朝からたくさんの種類のおかずが並ぶ食卓を用意する」という生活スタイルを好ましいと思われているからでしょう。
しかし、なぜ、そのような生活スタイルが好ましいかについての理由は示されないままです。

さすがに毎日、栄養調整食品だけの朝食をとるというのは飽きるでしょうし、実際にそうしようと思うご家庭も少ないでしょう。
でも、「疲れていて忙しい朝は、栄養調整食品だけでもおなかにいれておけば大丈夫。罪悪感を持つ必要はありませんよ」というメッセージがあれば、毎朝食卓を準備する人たちの気持ちがどれほど楽になるでしょうか。
気持ちを楽にしながら、できるときにできるだけ、メニューも心も豊かになるような食卓を整えることができるようになれば、これほどいいことはないと思います

陰山先生や川島先生には、せっかくデータをもとに発信されるのであれば、「朝ごはんのおかずの数が少ないのはダメだ」というメッセージばかりを発して、食卓を準備する人たちにプレッシャーを与えるのではなく、気楽に取り組めるような、思いやりある発信をしていただけると嬉しいな……と、これは気弱い母であるところの私からのお願いです。

さて、「早寝早起き朝ごはん」は国民運動として、文科省をはじめとする省庁や学校等で推進されています*2。陰山先生も、「早寝早起き朝ごはん」全国協議会の役員でいらっしゃいます*3

規則正しく、しっかりした食事をとることができる生活は、とても素晴らしいと思います。
一方で、国民ひとりひとりの生活のありようは多様であってよいはずです。

ところが、実際に「早寝早起き朝ごはん」運動にともなって強調されるのは、
「朝からたくさんの種類のおかずを用意すべし」
「好ましいのは米食」*4
といったように、特定の生活スタイルの良さばかりです。

プロパガンダとまでは言いませんが、それこそ国を挙げて特定の考えや行動に導くような主張が繰り返されるにもかかわらず、なぜその特定の考えや行動を推奨するのかについての意図や根拠があいまいにされたままでいるのは、決して好ましいこととはいえません。

特に川島先生は、先に引用した『すこやか情報便 特集号』にまとめられている講演の中で、「朝ごはんさえ食べればいいレベルの『早寝早起き朝ごはん』運動は不完全なもの」「『内容のある朝ごはんをしっかりと食べよう』というメッセージを出さないとたいへんなことになる」とおっしゃって、以下のような行動を勧めています。

この良い方法として皆さんの口こみネットワークに期待しています。地域のスーパーなどで「朝ごはんをキチンと食べない子はバカになるんだって !」と独り言や噂話のように簡単なメッセージを何回もくり返して発信していただく、これが一番効果的です。「バカになる」という言葉は問題がありますが、「賢くならない」ではインパクトがありません。

子どもたちのためを思う川島先生の情熱は理解しますが、さすがにこれは行き過ぎではないでしょうか。

遠回りでも、インパクトがなくても、睡眠をしっかりとれる環境作り(仕事上も通学・通塾上も)をし、心のゆとりを生み出し、食べることの楽しさを実感していくことで、私たちひとりひとりが、それぞれのライフスタイルと好みに応じて、健康で豊かな生活を送ることができるようにしていけたらいいと私は考えています。

グレーテルは妹?

NHK 教育テレビでやっている「グレーテルのかまど」という楽しい番組があります。
www4.nhk.or.jp

グリム童話の初代ヘンゼルから数えて十五代目のヘンゼル(瀬戸康史さん)が、姉のグレーテルのために素敵なスイーツを手作りする、という設定で、国内外のさまざまなスイーツを、それにまつわるエピソードとともに紹介してくれます。

ちなみにこの番組では、グレーテル自身は黒板にメッセージを残すのみで、一切姿を見せません。
スイーツができあがったころに「ぴんぽーん」とドアのチャイムが鳴る音がすると、ヘンゼルが「あ、姉ちゃん帰ってきた」とドアを開けに行き、ドアの外で待つカメラ(視聴者)に向かって「おかえり。おいしい○○(*スイーツの名前)作ったよ」とにっこり笑いかけてくれるという趣向です。いいなあ、グレーテル。

この「グレーテルのかまど」について、興味深い考察をしているブログがありました。
sorayori.com

sorayori.comさんのこの記事では、グリム童話のグレーテルは妹だったはずなのに、この番組では姉なのはおかしい……というところから出発して、おもしろい深読みをしていらっしゃいます。詳しくは記事をお読みください。

さて、初代から数えて十五代めにもなっているのですから、きょうだい関係が入れ替わっていてもまあ不思議はないかな、とも思いますが、そもそもグリム童話のグレーテルって、妹でよかったのでしたっけ?……というのが私の疑問でした。

sorayori.comさんは、大手前大学論集『グリム童話集』初稿、初版、第7版における「ヘンゼルとグレーテル」の変化について(大島 浩英)の以下の箇所を引用して、「グレーテル=妹」説の根拠としています。

初稿でのBrüderchen(兄)、Schwesterchen(妹)に対してそれぞれHänsel(ヘンゼル)、Gretel(グレーテル)という一般的な実名が与えられることにより、物語に具体性が増している。

この論文では、Brüderchenを兄、Schwesterchenを妹、と特に注釈なく訳していますね。
ですが、本来、BrüderchenやSchwesterchenには、年齢の上下までを含む意味はないはずです。

Brüderchenは、Bruder(英語で言うところのbrother)に、小さいとかかわいいとかの意味を付加する語尾-chenをつけた言葉です。*1
同様に、SchwesterchenはSchewester(英語で言うところのsister)に、-chenをつけた言葉。
おもしろみなく直訳するのであれば、どちらも「男きょうだいちゃん」「女きょうだいちゃん」となり、年齢の上下関係までは特定されません。

んんん? と思って調べたところ、2013年4月11日付けの日本経済新聞に、翻訳家の金原瑞人さんがこんな記事を書いていらっしゃいました。
www.nikkei.com

金原さんはこの記事で、

日本人はヘンゼルとグレーテルは兄妹だと思っているし、日本の絵本もほとんどそう描かれているのだが、英語圏では圧倒的に逆が多い。

と書かれています。

そうだったんだ! 

この記事で金原さんもおっしゃるように、英語圏やヨーロッパでは、きょうだい関係やおじおば関係について、年齢の上下関係を明確に特定することをあまりしません。
「ヘンゼルとグレーテル」のように、年齢を明示しない(男女の)きょうだい関係が出てきたとき、年齢の上下関係をどのように解釈するかについてお国柄が出る、というのはとても興味深いご指摘です。

こうなると、もう一度「ヘンゼルとグレーテル」を読んで、自分の目には彼らがどういうきょうだい関係に映るのか、試してみたくなりますね。

とりあえず、手元に、池内紀さん訳の『グリム童話』(ちくま文庫)があるので見てみます(「ヘンゼルとグレーテル」は上巻に収録されています)。
これは1857年版の『グリム童話集』を底本としているようですので、その版の「Hänsel und Grethel -Wikisource-」と対照しながらいきましょう。

深い森のはずれに、貧しい木こり夫婦が住んでいた。夫婦には二人の子どもがいた。男の子はヘンゼル、女の子はグレーテルといった。

と始まります。
「男の子」は「das Bübchen」、「女の子」は「das Mädchen」、なのでそのままですね(子供なので冠詞はどちらも中性名詞につくdas)。

しばらく、「グレーテルが」「ヘンゼルが」と名前による表記が続いて、こんな場面が。

ヘンゼルは(中略)それから部屋にもどった。
「もう安心だ。おれたちには、神様がついている」
と、妹にささやいて寝床にもぐりこんだ。

おっ、「妹」登場です。
原文を見てみると、
「それから彼(ヘンゼル)は再び戻ると、グレーテルに言った。
『安心おし、愛しいSchwesterchen。静かに眠るんだ。神様がついている』
そして寝床にもぐりこんだ。」
といった感じ。特に「年下の女きょうだい」と明示する記載はありません。

さらに読み進め、ついにヘンゼルとグレーテルは森に置き去りにされて、帰る道がわからなくなってしまいました。
泣き出すグレーテル。そして

ヘンゼルは妹の手をひいて歩き出した。

ここでも原文は、「ヘンゼルはSchwesterchenの手を引いて……」となっていました。

どんどん行きましょう。
ヘンゼルとグレーテルはお菓子の家を見つけて、たらふくお菓子を食べ、眠ってしまいます。
ところがそれは魔女の罠。
ヘンゼルは格子のついた小屋に放り込まれ、グレーテルは魔女に下働きを命ぜられます。

兄さんのために、おいしい料理をつくりな。兄さんは、外の小屋にいる。

ここで、「兄さん」に対応する原文は、特に年齢の上下関係を意味しない「Bruder」でした。

池内訳で「兄」「妹」と書かれているのはこれらの箇所だけで、あとはすべて「ヘンゼル」「グレーテル」と名前で呼ばれていました。
そして、原文のどこにも、きょうだいの年齢関係を明示する記載はありません。

となると、グレーテルが妹なのか姉なのか、判断する手がかりは、ヘンゼルとグレーテルのふるまいにしかありません。

最初のうち、ヘンゼルは、泣くグレーテルを慰め励ましたり、グレーテルの手を引いて歩いたり、家へ帰る目印の智恵を出したりと、比較的主導的な立場です。
それを見ると、ヘンゼルが年上かな? とも思えます。

一方、終盤、魔女にとらわれたヘンゼルを助けるのはグレーテルです。しかも、魔女をだましてかまどの中に押し込め、焼き殺してしまうのです。
それから家に帰るときにも、川を渡る智恵を出すのはグレーテル。

うーん。ヘンゼルもグレーテルも同じようにリーダーシップをとっているように思えます。
これはわからなくなってきました。

ですが、どうやら彼らのふるまいを見て、日本人はグレーテルが妹だと考え、英語圏の人たちはグレーテルが姉だと考える傾向があるようなのです。
どうしてでしょうね……?

グリム兄弟が生きていたら、どういう設定だったか、聞いてみたいものです。

*1:ケストナーの名作「点子ちゃんとアントン」の主人公はPünktchen。Punkt=点 chen=子。点子ちゃん、というわけで、これは名訳ですね。

それ、もう三木清が言ってた 〜『三木清 教養論集』から〜

現代の知識階級の悲哀は彼等が次第に自分の本質を失って無識になるつつあるということである。なるほど彼等は物を読む、けれどもそれは彼等の生の不安に原因を有するところの好奇心に刺戟されてのことであり、そういう風にして唯新しいものを漁っていたのでは好いものと悪いものとの区別も出来なくなり、知識は結局無識に等しい。否、彼等は新しいものと古いものとの区別さえ出来なくなりつつあるのである。
三木清 「講義録狂」(1932年8月)

 今年は哲学者・三木清の生誕120年目。
 ということで、年明け早々、講談社文芸文庫から『三木清 教養論集』が出ていました。

三木清教養論集 (講談社文芸文庫)

三木清教養論集 (講談社文芸文庫)

 1932年から1941年までの10年間に、新聞や雑誌などに寄稿された比較的短いエッセイの数々が、読書論・教養論・知性論の三部に大きく分けて収録されています。

 情熱的で明晰でチャーミングな文章。
 どこまでも一気に読むこともできるし、ちょっとした隙間の時間に振り返り読むこともできる、素敵な本です。

 これらのエッセイが書かれた時代と、その直後、敗戰翌月に獄死という形で三木が死を遂げた事実を考えると、ぞくっとするような記述も数多くあります。

 ですが、何より私が衝撃を受けたのは、今、言論のプラットフォームとしてインターネットが支配的なスペースを占めるに至った時代において、まったく普遍性を失わない論考が、これほど豊かに生み出されていたということについてです。

 この『三木清 教養論集』の中から、私が今にも通じると思ったエッセイのいくつかをメモしておきます。

インターネット時代に「物を読む」こと

 最初に引用した「講義録狂」は、この『教養論集』の冒頭に収録されているエッセイですが、まさしく今の時代のことを言っているのではないかとすら思える内容です。

 なるほど、確かに現代、本や新聞を読む人は少なくなったかもしれません。ですが、ウェブにあふれるさまざまなテキストを読む時間は、私たちの1日の中でも、かなり大きなウェイトを占めています。*1
 本や新聞をよく読む人であっても、日々、さまざまなメディアから流れ込んでくる情報に影響されないはずもありません。そしてその結果、「生の不安に原因を有するところの好奇心に刺戟され」「唯新しいものを漁って」いるだけ、という状況に陥っていないと胸を張って言える人がどれだけいるでしょうか。

 SNSなどでバズり(急速に話題になり)、拡散され、もてはやされる言説が、どこかで聞いたことのあるようなものの繰り返しであった、なんてことも実にしばしば目にします。

 私たちは、80年以上前に三木が言っていた「新しいものと古いものとの区別さえ出来なくなりつつある」状態を抜け出せてはいない(または再びその状態に陥っている)のではないでしょうか。

 三木はこのエッセイで、当時の日本の学会や思想界の不幸は、ひとがあまりに誤謬を(というより世間から誤謬といわれることを)恐れているがために、かえって混乱をかもしていることである、とも指摘し、いくつかの思考の道筋を提案しています。詳しくは本書をお読みください。

 三木の提案をもういちどじっくり考え直してみると、思考と議論の堂々めぐりから抜け出す道が見つかるかもしれません。

専門家ブームの功罪

 さて、三木は、「流行と権威」(1940年7月)の中で、当時の読者が本を自分で識別し選択するということが少なくなって、何か流行となっているもの、何か権威といわれているものに無造作に頼るということが多くなったと指摘しています。そして、このような読者の鑑識力の低下は流行が力を得る原因であり、また、流行は権威らしいものを作り出す原因になると述べています。

 読者が流行に頼って本を選択するというのは世の常だと思いますが、封建思想の現れとしての権威と流行との結びつきは、今、特に強まりつつあるように思えてなりません。

 たとえば、根拠のない健康情報を集めたキュレーションサイト・WELQが問題になったのは記憶に新しいですが、そのとき盛んに「専門家の監修」の必要性が叫ばれていました。
 しかし、医師や大学教員といった専門家の肩書きをもつ人であっても、いいかげんな健康情報にお墨付きを与えるような人はたくさんいます。
 テレビや新聞、雑誌、そしてインターネット上で、「○○という食べ物は健康によい」「がんは治療せず放置すべきだ」といった根拠のない(しばしば危険な)主張に、専門家の肩書きでお墨付きが与えられ、特定の食品や健康法のブームが生まれる、といったケースはよく目にします。
 主に肩書きだけをみて「専門家」という権威に安易に頼るのは危険であるにもかかわらず、「とにかく専門家の監修さえあればよい」という風潮になってはいないでしょうか。

 また、東日本大震災時に起きた福島原発事故のときは、特に放射性物質の健康リスクの見積もりについて、専門家(と一般に受け取られるであろう学者たち)の間でも意見がわかれ、大きな混乱が生じました。
 人々がそれぞれ、自分の信じたいことに沿った主張をする専門家を「権威」とみなし、その「権威」どうしが衝突する、ということすら起きました(今でもまだ起きているといえるのかもしれません)。

 私たちは、ひとりですべてのことがらについての知識や経験をもつわけにはいきません。ですから、何かについて判断する際に、何らかの「専門家」の判断を参考にすることはどうしても必要になってきます。
 自分が信頼するに足る「専門家」たちをどのようにして見極め、そしてその「専門家」たちの意見をどのように参考にして自分の行動を決定していくのか。

 三木は今のこのような問題に通じる「流行と権威」の問題を指摘していますが、その問題に対する答えを出してはいません。

 しかし、さまざまな混迷を経験してきた私たちであれば、考え、議論し続けていくことで、未来に向けていくつかの道筋を示していくことができるのではないでしょうか。

 少なくとも、そのための努力を続けている背中を、子どもたちには見せていきたいと思います。

そのほかいろいろ

 ほかにも、現代に通じると思われる三木の論考には事欠きません。
 
 たとえば、「教養論」や「知識階級と伝統」(いずれも1937年4月)には、最近の日本の右傾化を思い起こさせる議論を見ることができます。

 ここで三木は、「現代の客観的状況から見れば、民族と伝統を力説しているものは周知の如くファッシズムである」と断じています。
 一方で、当時のファッシズムとの闘いを含む抑圧的な空気に疲れた人々(インテリゲンチャをも含む)が、現実から退いて自分自身に還って来るときにも、自然と自分の故郷や休息所として、民族的なものや伝統的なものを見出すことがあるとも指摘しています。

 つまり三木は、「民族的なものや伝統的なもの」への関心はファッシズムから与えられるだけではなく、ファッシズムと闘い疲れて政治的関心を後退させたインテリゲンチャの中からも生まれ得ると言っているのです。
 今風に(かつ乱暴に)まとめてしまえば、サヨク的な人々からも、ウヨク的な気分は生まれ得る、ということになるでしょうか。

 三木は「この『還る』という気持は日本的伝統的なものである」と述べた上で、伝統的なものへ還って行くということに対して理論的支持を与えているのは、「自国の伝統についての教養は我々の忘れていたものであり、少くともこれを補うことは必要である」という「近頃の『教養』の思想である」と指摘しています。
 この指摘はまさしく、現代の「日本を、取り戻す」「教育勅語の精神を取り戻す」を思い起こさせるものです。

 現代の日本では、右翼と左翼の区別はもちろん、リベラルと保守の区別すら曖昧です。
 リベラルだと自認している人が極めて反動的な言動を見せることすらよくあります。
 三木の主張をみるかぎり、現代のこのような混乱はなにも最近新しく始まったものではなく、今から80年以上も前に、既に似たようなことはあったのだと考えざるを得ません。

 現代においては、「民族的なものや伝統的なもの」への関心だけでなく、思想の異なる人たちの間に共通して生まれ得る関心や気分はもっといろいろあることでしょう。*2
 関心や気分が一部共通していることによって却って、それ以外の思想や関心の差異が際立ち、相手への憎しみがいや増すということすらありそうです。
 今、「あいつは○○だからウヨク(サヨク)」のようなレッテル貼りはしばしば見られます。これは、嫌いな相手をむりやり何かのクラスタに分類して自分と切断することによって、その相手と自分が共通したものをもっているという事実から目をそらすための、一種の悲鳴のようなものなのかもしれません。

 しかし、そのような安易な切断は後退しか生まないだろうと私は考えます。
 そのような安易な切断をすることなく考え、対話していくために必要な教養とは何か。
 もう一度、この本を読んで考えてみたいと思います。(そして久しぶりに『人生論ノート』も)

*1:「人々が文字を読む時間は80年代に比べてほぼ3倍になっている」という話もあるくらいです。(〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則

*2:同じアニメが好きだとか、同じ社会現象に対して憤っているとか。

はたらく女性の深呼吸マガジン「りっすん」さんに、私の転機についての記事を寄稿しました

www.e-aidem.com

日々の忙しさにかまけて、ゆっくり自分のことを振り返ることができていなかったのですが、よい機会をいただけました。
ありがとうございます。

いつも子ども中心にあれこれ考える癖がついていたのですが、今回はもう一度、軸を自分に置いて考える、という試みをしてみました。
もしかするとちょっと青臭いところが出ているかもしれませんが、お読みいただけると嬉しいです。

文豪・偉人萌え文化と小林多喜二

『文豪とアルケミスト』というオンラインゲームで、小林多喜二をモデルにしたイケメンキャラクターが人気だということで、日本共産党の機関誌「赤旗」がその現象を好意的に取り上げたところ、ゲームのファンたちから「多喜二を政治利用するな」といった批判の声が上がったという話が話題になっていました。

文豪とアルケミストと小林多喜二と日本共産党 - Togetterまとめ
『文豪とアルケミスト』ファンが「赤旗」紹介記事に「小林多喜二を政治利用するな」! 君たち、多喜二のこと知ってる?|LITERA/リテラ

小林多喜二は、いうまでもなく日本のプロレタリア文学の旗手。
共産党員であり、治安維持法下における労働者の抑圧や、政府批判者の弾圧を鋭く描き出した作品で知られ、その故に当時の警察による拷問で虐殺された人物です。
彼の作品と生き方自体、政治とは切っても切り離せないわけですから、「多喜二を政治利用するな」という主張は奇異に見えることでしょうし、キャラクターのモデルとなった小林多喜二についてあまりに無知なのでは、とも思えることでしょう。

ですが、『文豪とアルケミスト』に至るまでの文豪・偉人萌え文化の系譜にある程度理解がある人たちにとっては、その主張に賛同はしないまでも、そういった主張が生まれる背景はなんとなく理解できるかもしれません。

文豪・偉人萌え文化とは


同人・アマチュア創作だけでなく、商業漫画・アニメ・ドラマCD、そしてゲームなどでは、わりと以前から、実在した文豪や偉人をモデルにしつつ、舞台を現代や異世界などに移して、文豪や偉人の実際のエピソードと架空のストーリーとを巧みに絡み合わせて生まれる世界観やキャラクターを愛で、楽しむという文化があります。

有名どころでいうと、たとえば『文豪ストレイドッグス』(略して『文スト』)。
漫画や小説が人気で、アニメ化もされています(劇場版製作と舞台化も進んでいるとか)。
太宰治、中島敦、国木田独歩、芥川龍之介といったキャラクターが、それぞれモデルになった文豪にちなんだ異能力を使ってバトルします。
登場キャラクターは探偵社に所属していたり、ポートマフィアだったりと、まったく文豪らしい仕事はしていないのですが、太宰治は自殺マニアだったり、国木田独歩は「理想」ノートを常に持っていたりと、モデルの文豪のエピソードを知っていれば「ああ、あれね」とうなずくことのできる設定が織り交ぜられています。

それから、ドラマCD『文豪シリーズ』(略して『文シリ』)と、そのコミカライズ『文豪失格』。
舞台は天国。ただし、「平成地区」と呼ばれる現代的な地区もある、現代の天国です。
つまり、「もしもあの文豪が秋葉原を訪れたら……」といったシチュエーションも楽しめるわけです。
文ストに比べ、より文学史にちなんだエピソードが多いですが、やはり実在の文豪たちとはかなりかけ離れたキャラクターとして描かれています。
アニメ版文ストもそうですが、こちらのドラマCDの方も、人気声優の方々がそれぞれのキャラクターを演じているのも魅力です。

萩原朔太郎とその同時代の詩人らをモデルにした『月に吠えらんねえ』という漫画作品も人気です。
ここでも、舞台は近代日本のような幻想世界。
美しい世界観が私は大好きです。

オンラインゲームだと、『ラヴヘブン』というスマホゲームがあります。
ラヴヘブンは、文豪だけでなく、日本の武将や幕末志士、海外の音楽家や画家などをモデルにした、幅広いキャラクターが登場するのが特徴です。
幕末志士をキャラクター化したゲームでは、『薄桜鬼』なども有名です。

ほかに、NHK大河ドラマのファンでtwitterユーザーであれば、いろいろな戦国武将アカウントが人気なのをご存じでしょう。
石田三成(@zibumitunari)などの武将が、リアルタイムで大河ドラマを見ている設定で、実際の史実を踏まえたつぶやきをしてくれたりします。
これもある意味、「偉人萌え」のひとつかもしれません。

いずれにせよ、文豪・偉人萌え文化の中では、虚構と現実の融合の妙を味わいつつ、その作品で生み出された新しいキャラクターそのものを愛おしむ、という楽しみ方をしているファンが多いのではないかと思います。

文豪・偉人萌えの対象から切り離されていた人びと

さて、今ご紹介した『文豪ストレイドッグス』『文豪シリーズ』『ラヴヘブン』には、共通して登場しない文豪(文人)が何人かいます。
どれほど有名でドラマチックな人生を送った文人でも、著作権が存続している人々(たとえば平塚らいてうなど)は扱いづらいのだろうとは想像がつきます(もっとも文ストには現代の作家も(おそらく了承を得て)登場しますが)。
しかし、きわめてドラマチックな人生を送り、しかもその作品の著作権が切れているにもかかわらず、『文豪ストレイドッグス』『文豪シリーズ』『ラヴヘブン』には登場しない文人もいるのです。

それが、大杉栄、伊藤野枝、辻潤、そして小林多喜二です。

大杉栄は著名なアナーキストで、数多くの社会主義論文や自叙伝、そして翻訳を遺した人物ですが、恋愛観もきわめて奔放でした。「自由恋愛」を唱え、一時期は妻・堀保子、伊藤野枝、神近市子の3人と同時期に愛人関係をもち、ついに辻潤の妻であった伊藤野枝と結婚しました。
伊藤野枝は女学生時代に、教師であった辻潤と恋に落ち、婚家から出奔して辻と同棲。その後、「青鞜」に参加して文筆家として活躍するも、大杉と恋愛して結婚。
関東大震災後に、大杉と伊藤は共にとらえられ、甘粕大尉によって虐殺され、非業の死を遂げました。
その後、辻は『ふもれすく』というエッセイの中で、伊藤を偲んでこう書いています。

しかし僕は野枝さんが好きだった。野枝さんの生んだまこと君はさらに野枝さんよりも好きである。野枝さんにどんな欠点があろうと、彼女の本質を僕は愛していた。

『ふもれすく』辻潤

これほどエピソードに満ちた人たちが、なぜ『文豪ストレイドッグス』『文豪シリーズ』『ラヴヘブン』には登場していないのでしょう。
あまりにその最期が悲惨であったために、キャラクター化して消費することが憚られたからでしょうか。しかし、よくキャラクター化される太宰や芥川の最期も、決して幸せなものとはいえません。

大杉栄、伊藤野枝、辻潤、小林多喜二についてはやはり、その人生や著作においてあまりに政治思想の色が濃いために、これまで「萌え」の対象には組み込まれてこなかったのではないかと思えてなりません。
大杉栄、伊藤野枝はアナーキスト。辻潤はアナーキストの友人を多くもつダダイスト。小林多喜二はプロレタリア文学者。
いずれも当時の政府に批判的な政治思想をもっていた人びとです。

文豪・偉人系作品でよくキャラクター化される坂口安吾はダダイズムの影響を受けていましたし、太宰治は左翼運動に参加していた過去があります。
太宰については、共産主義からの転向コンプレックスがその作品群のひとつの大きなテーマであるとさえ言われていますが、大杉らにくらべれば、反政府的な政治思想が顕著に現れているとまではいえないように思います。

(少なくとも商業作品の制作者側からは)あまりに「生」な政治思想は文豪・偉人萌えの文化にはなじみにくいと考えられ、そのために文豪・偉人萌えの対象からは切り離されてきた人びとがいるのではないか、と私は考えています。

『文豪とアルケミスト』で切り離されなかった多喜二

さて、従来の文豪・偉人系作品『文豪ストレイドッグス』『文豪シリーズ』『ラヴヘブン』には登場してこなかった文豪(文人)のうち、『文豪とアルケミスト』のみに登場する文豪がいます。
それが、今回話題になった小林多喜二です。

実は、『文豪とアルケミスト』には、小林多喜二以外にも、もうひとりのプロレタリア文学者・中野重治が登場しています。
中野重治に至っては、まだ著作権も存続しています。もちろん、文スト、文シリ、ラヴヘブンのいずれにも、中野重治は登場していません。

どうやら『文豪とアルケミスト』は、萌えの対象からプロレタリア文学者を切り離すつもりがないどころか、積極的に登場させようとしているようです。。
『文豪とアルケミスト』は、この記事でご紹介した作品の中でもっとも最近(2016年)リリースされたものですから、制作者も冒険をしたのかもしれません。

文アルファンの間で小林多喜二と中野重治が受け入れられ、愛されている様子を見ると、少なくとも消費者にとって、キャラクターのモデルとなった人物の思想性は、ゲームやキャラクターを楽しむことの邪魔とはなっていないように見えます。
これまで積み重ねられてきた文豪・偉人萌え文化の経験から、虚構と現実の融合の妙を味わいつつ、その作品で生み出された新しいキャラクターそのものを愛おしむ、という楽しみ方に、ユーザーが慣れてきているからでしょうか。

一方、これまで文豪・偉人萌え文化と縁遠かった人にとってみれば、突然イケメン化した小林多喜二がゲームのキャラクターとして登場したことに面食らい、しかもそのキャラクターを政治利用してほしくないという訴えにさらに驚いたことでしょう。
ですが、文豪・偉人萌え文化の系譜をある程度おさえると、「キャラクターを政治利用してほしくない」と主張するファンが出てくる理由が、単に「モデルとなった文豪について無知なだけ」というわけではないことが理解できるのではないかと思います。

もっとも、文豪・偉人系作品の楽しみ方はファンによってさまざまですから、「キャラクターを政治利用してほしくない」という主張を好ましいとは思わないファンもそれなりにいそうです。
『文豪とアルケミスト』がプロレタリア文学者のキャラクター化を果たしたことで、今後、さまざまな文豪・偉人系作品において政治思想の色が濃い人びとがキャラクター化される道が開かれたかもしれません。
となると、キャラクターとモデルをめぐって、ふたたび今回のような議論が巻き起こる可能性もあるのかな、などと考えているところです。

文豪ストレイドッグス(1)<文豪ストレイドッグス> (角川コミックス・エース)

文豪ストレイドッグス(1)<文豪ストレイドッグス> (角川コミックス・エース)

ドラマCD 文豪シリーズ 第1巻:吾輩たちは文豪である

ドラマCD 文豪シリーズ 第1巻:吾輩たちは文豪である

  • アーティスト: ドラマ,鳥海浩輔,藤原啓治,石田彰,遊佐浩二,近藤孝行
  • 出版社/メーカー: フロンティアワークス
  • 発売日: 2012/07/27
  • メディア: CD
  • クリック: 1回
  • この商品を含むブログ (5件) を見る
文豪失格 (リュエルコミックス)

文豪失格 (リュエルコミックス)

  • 作者: 千船翔子,AIR AGENCY・フロンティアワークス,一柳廣孝
  • 出版社/メーカー: 実業之日本社
  • 発売日: 2015/12/04
  • メディア: Kindle版
  • この商品を含むブログを見る
月に吠えらんねえ(1) (アフタヌーンコミックス)

月に吠えらんねえ(1) (アフタヌーンコミックス)

美は乱調にあり――伊藤野枝と大杉栄 (岩波現代文庫)

美は乱調にあり――伊藤野枝と大杉栄 (岩波現代文庫)

諧調は偽りなり――伊藤野枝と大杉栄(上) (岩波現代文庫)

諧調は偽りなり――伊藤野枝と大杉栄(上) (岩波現代文庫)

美は乱調にあり

美は乱調にあり

かぶとしめじのホットサラダ

ホットサラダ好きです。

軽く火を通したかぶも大好き。

その2つを合わせてみましたよ。

 

(1)かぶとしめじを炒める

薄く油を引いたフライパンでしめじを炒めつつ、空いているスペースにくし切りにしたかぶを並べて、かぶの両面に焼き色がつくまで焼いて、軽く塩こしょうして炒め合わせます(私はちょっとかためのかぶが好き)。

f:id:pollyanna:20170228214957j:image

 

(2)ヨーグルトソースとあわせる

サラダボウルにプレーンヨーグルト、隠し味程度に砂糖を入れて混ぜておきます。

そこに炒めたかぶとしめじを入れて、ざっと混ぜたらできあがり。

 

f:id:pollyanna:20170228215213j:image

 

白ワインに合いますよ。

 

鱈の白子のふわとろ塩焼き

今が旬の鱈の白子は、塩焼きで食べるのがいちばん好きです。
以前、魚屋さんで教えてもらった白子の下ごしらえの方法と、私がお気に入りの塩焼きのレシピをご紹介。

(1)白子のぬるぬるをとる
 白子をボウルに入れて、塩を振りかけて、手でぐるぐる~っとかき混ぜます(白子300グラムに塩小さじ2杯くらい)。
 するとぬるぬるがゼリー状に固まってくるので、これを流水で取り除きます。ボウルに水を張った中で取り除いてもよい。

(2)白子を湯通しする
 ぬるぬるをとって、よく洗った白子を一口大に切ります。キッチンばさみでちょきちょきと。
 小鍋に水を沸騰させた中に、切った白子をどぼん。数十秒湯通しして、ザルにあげます。(白子ポン酢で食べるときは3分くらいゆでるとよい)

(3)白子を焼く
 グリルの網にアルミホイルを敷いて、薄くサラダ油を塗ります。
 そこに湯通しした白子を並べて、塩をパラパラ。
 強火でいい感じに焦げ目がつくまで焼くと……

こんな感じ。
ふわふわとろとろで、うんまいですよ。