科学と生活のイーハトーヴ

Seeking for Ihatov – Utopia – of Science and Life

2012/01/26
by Yukiko FUJII
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本当に○○な人だったら……

 本当にやる気がある人なら、このくらいがまんできるはずだ。
 本当に賢い人なら、このように行動するはずだ。

 といったような、要するに「本当に○○だったら、△△できるはずだ(××しないはずだ)」という言い回しをしばしば耳にすることがあるけれど、これがかねがね大キライだった。
 「△△できないかぎり、本当の○○じゃないんだよ」
 という狭量さ、押しつけがましさを感じるからだ。

 この言い回しがキライすぎるので、いろいろと悪口を考えてみたのだけれど、そもそも「本当にやる気がある」とか「本当に賢い」ってどういうことなんだろう。
 その状態こそが「本当」であると誰が決めたのかといえば、それは主張している当の本人にすぎない。

 確実にいえるのは、
「このくらいがまんできる人が、本当にやる気がある人だ(と私は思う)」
「このように行動する人が、本当に賢い人だ(と私は思う)」
 程度のことではないのか。

 それだといまいち説得力に欠けるので、この命題の逆をとって、「本当にやる気がある人であれば、このくらいがまんできる」という主張になったのではないかと推測する。

 しかし、たとえもとの命題が正しいと仮定しても、逆は必ずしも正しいとは限らない(論理学の法則どおり)。その上、もとの命題の正しさも証明されていない。

 つまり、「本当に○○だったら、△△できるはずだ」という主張は、結局なにも根拠のあることを言っていないのだ。

 根拠のあることを言っていないわりに、妙な説得力のある言い回しではある。
 誰かが勝手に定義しただけのものにすぎない基準を、あたかも絶対的に定義されたものであるかのように見せかけているからかもしれない。

 なにか架空の絶対的な定義のようなものを振りかざして、その定義にあてはまらないものは「本当の○○ではない」と切って捨てるような感じが、どうにもわたしは好きになれないのだった。

 もちろん、この言い回しを使う人が「よし、架空の絶対的な定義を振りかざして、当てはまらないものは仲間はずれにするぞ!」という意図をもって使っていることはまずないだろう。
 だから、ふだんこういった言い回しに出くわしたら、ああ、主張の内容を強めるためのレトリックとして使われているんだなあ、くらいに思って聞き流すことにしている。

 ただ、話題の種類や、自分の心の弱りようによっては、単なるレトリックにすぎないこの言い回しに、予想外のダメージを受けることがある。
 自分が「本当の○○ではない」と否定されたくないとき。でも、強気で抵抗できないとき。……「本当に子供を愛しているのなら、仕事なんか続けていないはずだ」みたいに言われたとき。

 そういったときに、「本当に○○だったら、△△できるはずだ」という主張はなにも根拠のあることをいっていないのだ、ということを自分に思い出させるために、ここに書き残しておくことにする。

2011/12/29
by Yukiko FUJII
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『年忘れ二ツ目の会プラス喬太郎』(浅草演芸ホール)


 仕事納めの昨日、ほんとに納まるかどうか心配してたのですが、思いのほか早めに上がれたので、ぼーんと浅草演芸ホールに飛び込んで、聴いてきました。
『年忘れ二ツ目の会プラス喬太郎』

 小太郎さんの『猫と金魚』の途中から、最後列下手側に滑りこんで、わたしとしては珍しくビールも飲まず(!)、お茶だけで聴きとおしました。

 若手ホープの皆さんをまとめて聴ける&喬太郎さんが聴ける、というので、とてもおいしい会だったと思います。これから伸びそうな若手の噺家さんに目をつける楽しみというのは、これはなんともいえないものがあります。この会には、昼夜合わせて、いまいる二ツ目さんのおよそ半数の方が出演されたとか。
 客席は、5時半すぎくらいで八分どおり埋まっていて、終演前にはほとんどいっぱい。わりと反応のよいお客さんが多かったように思います。

 印象に残った噺を以下に。

柳家初花さん『ハンカチ』

 新作落語、だと思います(どなたの作だったかは存じ上げず)。
 夫婦喧嘩のあげく、ぷいと家を出た夫が、ひょんなことから「妻への愛を叫ぶ会」に出場。妻の悪口を言いながらも、なんと優勝してしまう。家に帰ってみると……というお話。
 落語に夫婦の話は多いですが、王道を行くようなおもしろさとあたたかみのある噺です。

 初花(しょっぱな)さんの演じる夫の無愛想さ、不器用さがなんともリアルで、大笑いしたし、ちょっとほろりともしました。

古今亭菊六さん『稽古屋』

 モテようと思って芸事を習いに行った無作法な男が、稽古屋で引き起こすドタバタ。
 お師匠さんがみいちゃんという女の子に踊りの稽古をつける場面は、ほんとにその場で踊る小さな子が目に浮かぶようで、見入ってしまいました。
 ただ、唄がもう……ちょい……かなあ。

 登場人物がみんないきいきしていて、よかったです。

林家ぼたんさん『半分垢』

 長く修行に行っていた関取が帰ってきた。さっそく訪れてきた客に、おかみさんがおおげさに関取の自慢をする。それを隣の部屋で寝ながら聞いていた関取は、「あまり大きい大きいとこちらから自慢をするものじゃない」とたしなめる。おかみさんは「せっかくほめたのに」とふくれっつらをしながらも、次に来た客には、できるだけ関取を小さく言おうとして……、というお話。

 当節、女流もめずらしくなくなりました。
 ぼたんさんも、柳亭こみちさんもそうですが、若手の女流は、アニメで少年の声を担当する声優さんのような声質の方が向いているようです。
 ぼたんさん演じるおかみさんは、関取が好きでしかたないんだろうな、ほんとにもう、とつつきたくなるくらい、可愛らしくて、元気でよかったです。

柳家右太楼さん『猫の皿(猫の茶碗)』

 言わずもがなの「高麗の梅鉢」のお話。

 すっとぼけた、ちょっとずるい茶店の爺さんがなんともよかったです。
 道具屋さんが茶店からまわりの景色を見渡す場面は、見せどころ、きかせどころだと思いますが、ふーっと涼しい風が吹いてくるようでした。

桂才紫さん『熊の皮』

 女房の尻に敷かれっぱなしの、八百屋の甚兵衛さん。「あたしからだと言いなよ」と女房に指図されるままに、近所の医者のところに赤飯をもらったお礼を言いにいく。しどろもどろになりながらも口上を述べ終わると、医者が到来物の熊の皮を見せてくれる。「これは何にするものですか」「尻に敷くものだ」というところで、甚兵衛さん、もうひとつ女房の伝言を思い出す、というお話。

 才紫さん、今回は代演ということでしたが、聞けてよかったです。終始大爆笑でした。
 正直の上にバカがつく、という役回りの甚兵衛さんが、憎めないような、憎めなさが過ぎてちょっといらいらするような、絶妙な人物になっていました。

 次の喬四郎さんの到着が遅れて、つなぎに踊ってくれた「かっぽれ」が、これまた楽しかったです。一気に寄席(主に客席)の一体感が増した感がありました。

林家たけ平さん『紀州』

 七代将軍、徳川家継候が若くして亡くなり、次代将軍を決めるお話。
 
 まくらが長くて(楽しくてよかったですが)どうなることかと思ったら、みごとにおさまりました。
 ふざけまくっているようでいて、ぴーんと芯が一本とおっているので、安心して聞けます。

柳家喬太郎さん『擬宝珠』

 待ってましたの真打。
 たぶん珍しい噺で、調べたら、喬太郎さんが復活させたようです。

 若旦那が原因不明の病で寝ついてしまった。困り果てた大旦那が、若旦那の幼なじみの熊さんに、「ちょっと理由を探ってきてくれ」と頼む。「若旦那、原因はなんですか。どうせイロでしょう」「…………」「え? イロじゃない。ってことはこの噺は『崇徳院』じゃねえんだな」
 実は、若旦那の患いの原因は「擬宝珠が舐めたい」というもの。若旦那は金物フェチだったのだ! しかもそんじょそこらの橋の擬宝珠はもう飽きたという。若旦那が舐めたいのは、なんと浅草寺の五重塔のてっぺんにある宝珠。熊さんはしかたなく大旦那に相談して……。

 とまあ、とんでもないお話なんですが、腹がよじれるほど爆笑しました。
 大旦那が「……親子だねえ」と自分の金物フェチをカミングアウトするところ、そして大旦那夫妻の馴れ初めも金物フェチであったことが判明するところは、笑い死ぬかと思いました。

 寄席がはねる前に、喬太郎さんがひとことご挨拶。
 楽屋に残っていた二ツ目さんたちも呼んで、喬太郎さんの音頭で三本締め。
 寒柝が響く冷えこんだ外に出たら、ものすごく愉しいような淋しいような、胸がイリイリする気持ちになりました。年末らしい、よい会でした。
 

2011/11/20
by Yukiko FUJII
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忘れない

 東京駅の地下通路(オアゾと新丸ビルの間)を通りがかったところ。

 宮城県の女川第一中学校の生徒さんたちが、震災後につくった五七五が展示されていました。(財団法人日本宇宙フォーラムの、「地球人の心プロジェクト」の一貫とのこと)

 ぜんぶで255点。短冊にひとつひとつ、肉筆で書かれています。
 読むうちに涙がとまらなくなりました。
 作者の生徒さんの名前がなかったのですが、一部をご紹介します。

「海水に ついたすずらん 咲いていた」

「まっててね 今届けるよ おばあちゃん」

「天国の 人たちきっと笑ってる」

「失った 町はきっと取り戻す」

「震災に負けてたまるか女川町」

「枯れちゃった だから再び花咲かす」

「ひさしぶり 出会った友は 泣いていた」

「もう一度 みたいけしきは 夏祭り」

「そばにいる 仲間がずっと そばにいる」

「思い出は ガレキの山に なっちゃった」

「女川の希望の星はぼくたちだ」

「思い出が宝物なのに全部ない」

「夢だけは壊せなかった大震災」

「震災を うけてもふるさと 離れない」

 これらの句は、今年の夏ごろの作品のようです。
 しかし、地震や津波の被害がまだまだ終わっていないことは、つい最近の標葉隆馬さんのレポートを見ても明らかです。

 りゅうま先生被災地を行く。

 忘れてはいけないことを、忘れないようにしようと思いました。

2011/11/14
by Yukiko FUJII
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誰かを守ることと、強さについて

 まいど特撮ネタで恐縮ですが、前回の『海賊戦隊ゴーカイジャー』は、すごくいい回だったなあ。

 ジョー(ゴーカイブルー)とバリゾーグの因縁の戦いも、司令官ワルズ・ギルの切ない最期も見ごたえがあったけど、いちばん印象に残ったのは、マーベラス(ゴーカイレッド)のこの言葉:
 「おまえらや、おまえらの夢は、俺に守られるほどヤワじゃねえもんな」

 何かを守るとは、どういうことか。
 「守るものがあるから強くなれる」というような表現をよく見かける。何かを(誰かを)守ることができる人間が強く、理想的なのだ、という価値観は、それなりにありふれている。
 しかし、この海賊たちの場合はちょっと違うらしい。

 チームが絶体絶命のピンチに瀕したとき、リーダー的存在のキャプテン・マーベラスは、自分以外の仲間たちを守ろうと強制脱出させて、自分だけが残った。しかし、戦闘の現場から追い出された仲間たちは、そのことをまったく喜ばなかった。のちに仲間たちと再会したマーベラスが、自分が間違っていたことを認めて言った言葉がこれだ。
 「おまえらや、おまえらの夢は、俺に守られるほどヤワじゃねえもんな」

 ここにわたしが見てとったのは、「守るものがあるから強くなれる」というありがちなヒーロー像へのアンチテーゼだ。
 そしてわたしがマーベラスの言葉に感動したのは、「守るものがあるから強くなれる」という考え方がもつ無神経な側面、つまり、相手の思いとは関係なしに、一方的に相手を庇護下におくことによって自分が強くなろうとすることの暴力性とウソくささに、ずっと反発しつづけてきたからだと思う。自己犠牲についても似たような感情をもつことがある。

 守るべきものは守り、助けるべきものは助けなければいけないのは当然のことだ。
 でも、相手を弱者の立場に拘束することによって、相対的に自分が強くなろうとし、そのことに無自覚なままにヒーロー面をする輩が、わたしはどうにも気にくわなかった。わたしが望む強さとはそんなものじゃない、というきわめて個人的な思いではあるけれど。

 まったく違う過去を背負い、それぞれの夢を自分の手でつかもうとしながらも、互いの意思を尊重して助け合って生き抜く海賊たちは、わたしにはとても魅力的なヒーローたちにみえる。

 共に生きる相手を尊重するとはどういうことか、なんだと思う。

2011/11/03
by Yukiko FUJII
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ゴールデンハニードワーフグラミー



5尾、うちの水槽に仲間入りしました。一ヶ月くらい経ったところ。

胸びれでちょんちょんと何かを探ったり、仲間と話してる様子や、無防備に寝ているところなんかが、たいそう愛らしい魚です。
先日の朝、とつぜん「クエッ!」という声で鳴いたので、びっくりしました。
口から水鉄砲を吹き出したりもします。

泡巣をつくって、オスが卵を守るなど、繁殖行動もおもしろいそうなので、大事に飼っていこうと思います。