散歩しながら考える

*今回のおともカメラは、X-T20にXC50-230mmF4.5-6.7 OIS IIを装着。

ここのところの東京は雨が続いて、10月中旬とも思えない寒さだった。
ようやく昨日になって、久しぶりに晴れ間がのぞいたので、日光浴も兼ねて、朝散歩してきた。
日の光を浴びないと、寝てもごはんを食べても、何かのパワーが失われていく気がする。ビタミンDだけじゃないと思う。

これだけ寒かったのに、見渡すかぎりの紅葉・黄葉という感じでもないのは、急激な寒さに木が追いついていないからか。

それでもやはり、秋の気配はそこここに。

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秋といえば最近お気に入りの歌、吉澤嘉代子「残ってる」。
夏の終わり。秋の初め。
初めて恋人と夜を明かした女の子が、朝、ひとり家路につきながら恋人を思う歌で、この情感が大好き。
もうそんな年頃は、はるか遠くになってしまったというのにね。

まだ、夏の名残りのようにツマグロヒョウモンが飛んでいた。

私はラジオをよく聞くのだけど、こないだ、J-WAVEで蔦谷好位置さんが、音楽業界の収益がV字回復しているという話をしていて、それがちょっとおもしろかった。
要は、とにかくCD売らなきゃ、レコード売らなきゃみたいな風潮があるけど、音楽の歴史を考えてみれば、こういう円盤を売るという文化はごく最近のものにすぎない、と。
フェスやライブが今のように盛り上がってるというのは、ずっと昔の音楽の楽しみ方に回帰してるんじゃないか、と。
そんな感じの趣旨。

音楽に限らず、舞台も今は盛り上がっているから、やっぱりライブ回帰というのはあるんだろう。
ただほんとにそれだけで、今後もちゃんと盛り上げていけるのか。
音楽もお芝居も大好きだから、なんとか業界の収益につながるように行動したいなと思う。


ネットで議論が白熱しているあたりをのぞくと、よく「ネット(を見ている層) vs. テレビ(を見ている層)」みたいな二項対立を前提としている場面に出くわすけど、そこではたとえば「ラジオをよく聞く層」は可視化されていないようで気になる。
(ほかにも、新聞や雑誌を主に見ている層、というのもあるかもしれないし、各層の重なりにいる人もいるだろう)

自分の入り浸ってる場所が主戦場のように見えてしまうのは人の性か。

私は、Twitterでずっと使っていたアカウントを、今年の初めに削除した。
大切な人たちとは、ほかのネットワーク(リアルとか、他のSNSとか)でもつながっているので、特に不便を感じてはいない。
このブログもあるし。

でもやっぱり、Twitterを主に使っている人の中には、私はもういなくなってしまったかのように見える人もいるらしい。
わざわざブログやら別のSNSやらを見に行くのは、それはおっくうに違いないだろうな、と理解はしつつも、やはり少し淋しいなと思う。
逆に、自分が少しでも大切に思う人や、その人の話を聞いていたいと思う人とは、ひとつの手段だけでなく、別の手段でもつながっていたいなと思うようになった。

言論や交流について、一種類のプラットフォームだけに依存するのはとても怖い。

だから私は、SNSだけじゃなく、RSSフィードリーダーと、そしてジオシティーズでテキストを更新しているサイトを、今日も見に行くのである。



川の水がずいぶんと澄んできて、カルガモのお尻が寒そう。

今度の日曜は、いよいよ衆議院議員選挙の投開票日だ。
何で今なのかさっぱりわからない解散に始まって、希望の党の旗揚げ、そこに民進党が合流……と、もはやこの世の終わりかな? というくらい絶望的な状況だったけど、立憲民主党という選択肢ができてくれて、本当によかった。
まだこの国を見捨てずに済みそうで、枝野代表には心から感謝したい。

議席数を頼んで横暴な政治をしている側ではなく、少ない議席数でそれに抵抗する側が「不甲斐なさ」をなじられるという構図を、この1年でたくさん見てきた。
最終的に多数決で決まるにしても、そこに至る議論と情報公開がしっかり行われるようにはしてほしい。
そのために、「議論の席に着け」と要求できるだけの数と力が、少数派といえども必要だと思う。
残念ながら、少しでも少数派を増やすという目的のためには、小選挙区制は不適当だけど、意思表示のためにもきちんと一票を投じに行きたい。

クラシッククロームはやっぱり好き。
この親子(と思われる)自転車たちは、ずっとここにある気がするのだけど、乗り手たちはどこへ行ってしまったのだろう。


よく見るともう、花芽のようなものが見える。