差別や偏見そのものについての議論と、差別や偏見とつきあいながら実務上の合意を形成するための議論とを、同時に進めるのはむずかしい

長いタイトルで結論を書いてしまいました。
千葉市が男性保育士活躍推進プランを策定したことに関する熊谷千葉市長のツイートに端を発した議論を見ていて考えたことです。

男性保育士の女児担当外しは性差別? 熊谷俊人・千葉市長の発言で議論
「男性保育士に女児を着替えさせるな」要求は正当? 熊谷・千葉市長、性差別は許されないと喝破 - エキサイトニュース(1/2)
【議論再追加】熊谷千葉市長の男性保育士に関する議論。保護者の男性保育士を自分の娘に担当させるなと言う要求は正当なのか? - Togetterまとめ


私は、千葉市が打ち出した男性保育士活躍推進プランには賛成です。

子供たちにはできるだけ多様性に富んだ人たちの中で育ってほしい*1と思うし、また、保育士という職業に就きたいと願う人たちの前に性別の壁が立ちふさがることのないようにと願うからです*2

ところが、残念ながら、今回の議論では、主に子供に対する性虐待への懸念から男性保育士の職務を制限してほしいと主張する人たちと、そのような差別的な取り扱いは不当だと主張する人たちとの間で激しい対立が起こり、一致点が見つかる気配がありません。
これは、熊谷千葉市長(以下、単に「市長」と書きます)の一連の発言が、「社会として男性保育士への理解が進む状況をつくりたい」というご自身の意図を十分に反映したものではなかったことも一因ではないかと私は考えています。

市長のツイートには、
「女児の保護者の『うちの子を着替えさせないで』要望が通ってきた」
「女性なら社会問題になる事案」
「女性の場合と異なる基準になっていることをご本人も気づかない状況」
「男性保育士が女児を世話することに嫌悪感を感じ、区別を求める多くが女性という点が面白い」
「女性側に男性の不利益に関してまだ意識が十分でない」
のように、男性保育士に不信感を抱く女性の意識や偏見を正そうとするものが多く見受けられます。

もちろん、市長の主張におかしいところはありません。
「男性は性犯罪を起こしやすいから女児を世話させるべきではない」といった主張は極めて差別的です。仮に男性の方が性犯罪を起こしやすいという統計があったとしても、そのような統計は差別を正当化する根拠とはなりえません。
女性に対する不利な取り扱いはしばしば話題に上りますが、男性が男性であるがゆえに受ける不利益についてはまだまだ注目されづらいのが現状です。
この理不尽な現状に対して、常日頃、市長が憤りやいらだちといった強い思いを感じていたとしても何ら不思議はないですし、市長にはその思いを表明する権利があります。

しかし、「社会として男性保育士への理解が進む状況をつくりたい」という意図を伝えようとする場合、まだ理解に至っていない相手の意識や偏見を正面から(もっといえば頭ごなしに)正そうとするのは、果たして得策でしょうか。
特に、今回の議論で市長が理解を求める相手は、幼児である子供の心と体の安全を何より大切に思い、心配する親たちです。
腕の中の子供を心配して不安を膨らませている立場の親たちに、まず自分の偏見を自覚するところから始めるよう要求するのは、かなり無理があると思うのです。

市長は「男性保育士が少なく、家庭においても男性の育児への関与がまだまだ少ない現状においては、『男性保育士が娘の着替えや排泄に関わって欲しくない』と思うこと自体は否定されるものではありません」ともおっしゃっています(熊谷 俊人 - 「男性保育士が娘の着替えや排泄をして欲しくない」という意見の背景についてまとめると以下の通りでしょうか... | Facebook)。
しかし、それだけでは、「不安な思いは否定されずにずっと持っていてかまわないが、その思いは自らの偏見や無理解に基づくものであることを理解せよ」というメッセージを相手に突きつけるだけです。
このように突きつけられた相手が、考えや対話を進めるための具体的な糸口を見つけるのは困難なのではないでしょうか。

私は、市長の「社会が考慮するに足る理由無しに性による区別をすることは差別です。女性活躍を進める中だからこそ、真剣に日本社会が議論し、乗り越えるべき課題です」という主張に諸手を挙げて同意します。
ですが、その課題の解決(市民、国民の意識改革がゴールでしょう)のためのやや抽象的な議論と、今、保育の現場に男性保育士を増やすという発表によって生まれた(一部の)親たちの不安やとまどいをどう払拭するかという具体的な議論とを、同時に進めるのはとても難しいことなのではないかと思うのです。
今回の炎上と発散は、これらの議論がごちゃまぜに進んで収拾がつかなくなったから起こったように思います。

「社会として男性保育士への理解が進む状況をつくりたい」という目的のためには、まずは、たとえば、女性保育士・男性保育士を問わず、常に複数の保育士が協同して保育にあたることができる環境が整備されていることや、子供の虐待を引き起こすような要因が十分に排除されていることなどについて、具体的な説明を積み上げていくことが有効なのではないかと思います。
親たちの不安に対して「このような対策を取っている」と答えることができれば、親たちも自分たちの不安が根拠のないものだったと気づく機会が得やすくなるのではないかと思います*3

そういった取り組みや議論を進めつつ、それとは切り分けたところで、これまで見過ごされがちだった男性への差別や、真の男女共同参画のあり方についても、抽象度を上げた議論、または、よりさまざまな事例にわたる議論を進めていくのがいいように思います。

これはもちろん、個々人が差別的な取り扱いに対して抱く憤りや悲しみといった感情を、いつ、どこで、どう表明するかということとはまったく別の話です。

*1:個々の子供の特性が許容できる限りにおいてです。すべての子供にとって多様性に富んだ人間関係がベストだとは限らないでしょうが、今回その話はしません。

*2:男性保育士が増えれば力仕事を任せられるという点を利点に挙げる人も散見されましたが、男性保育士には力仕事と期待するのは性差別でしょう。力仕事が苦手な男性保育士さんが保育の現場にいるのもまたよいことだと思います。

*3:それでも「頭では理解できてもどうしてもイヤ」という人がいなくなることはないでしょうが、頭ごなしに偏見を正そうというところから進めるよりは、理解を得られる相手は増えるのではないかと思います。少なくとも、外部からの行政に対する理解は得られやすくなるはずです。