『おおかみこどもの雨と雪』を観てきました。おもしろかったです。
劇場に行く前に読んだレビューの中に、「母性が過剰に礼讃されている」「スーパーウーマンとしての母親が賞賛されている」という指摘をいくつか見かけましたが、わたしにはそのようには感じられませんでした。
ネット上のレビューを読むと、本作の評価はさまざまに割れているようです。わたしも、感想を書き留めておこうと思いつつ、なかなか書けずにいました。
花について
花は、おそらく多くの人間の母親(そして父親も)がそうであるように、「最初から完成された母親」などではありません。そして、良くも悪くも「人間らしい」知性をもった母親ならではのさまざまなアンバランスさを持ち合わせています。人によってはそのアンバランスさを不快に感じることもあるだろうと思います。
花のアンバランスさが特に気になるのは、こどもたちの乳幼児時代です。
花は、こどもたちに関する事柄を、誰にも相談することなく、自分一人で抱え込みます。花が頼りにするのは書籍だけ。
それも無理はない、なぜなら、こどもたちが「おおかみこども」であることを誰にも知られてはならない、という前提があるからだ、と考えることはできそうです。
でも、花がその前提を大切にしすぎるあまり、こどもたちの命や健康をさほど重要視していないように見えて、そこがとても気になりました。
たとえば、専門家の介助なしに自宅で出産する場面とか、幼児(幼獣?)の雨や雪が誤飲等で嘔吐して苦しむ場面などは、見ていてハラハラしました。
ちなみに、子供を危険にさらすシーンがあるアニメとしては、宮崎駿監督の『崖の上のポニョ』があります。わたしにとっては、『ポニョ』のリサのほうがはるかにファンタジーとして受け入れやすく、本作の花にはリアルな居心地の悪さをおぼえました。
「人前でおおかみになっちゃダメ」という“ひみつ”は、こどもたちの命や健康より大事なのか、こどもたちにはそのような生き方を強いるしかなかったのか、と、前半はそのことばかりを考えながら見ていました。
ただ、ストーリーの中盤。韮崎のおじいさんの手助けを受け入れたあたりから、そして決定的には、冬山の冷たい川に雨が転落して流された事件あたりから、花は変わっていったように見えます。
おおかみの姿で川に流された雨は、裸の人間の子供の姿になって雪に救い出されます。ぞっとするほど冷たい青紫色の肌をした雨を抱きしめて、花が何度も夢中でその名を呼びます。
花が生き生きとした感情をあらわしたのは、おおかみおとこの“彼”が死んだとき以来、このときが初めてでしょう。
花の腕の中で、雨の肌に少しずつ血の気が通い始める描写は、その色の変化から目を離すことができないほど、美しい表現だと思いました。
花が「母性」らしい何かを自分のものにしたのは、雨が溺れ、そして助かった、この事件からではなかったでしょうか。
その後しばらくして、花は初めて、書籍以外の相手に、子育てについて相談します。もっとも、相談した相手は、檻の中の年老いたシンリンオオカミでしたが、これは花にとって大きな変化だと思います。
本作において、花は、「ほとんど自覚もないままこどもたちを産んでしまった」少女から、「なんとかそれらしい形になった」母親へと変化していく存在として描かれていると思いました。
花がようやく「母親」になったときには、こどもたちはそれぞれに巣立っていってしまうわけですが。
雨と雪について
姉の雪は健気で哀しい女の子です。
弟の雨が、体も気も弱く、手のかかるこどもであったのに対し、雪は強く、生きる力に満ちあふれているように見えます。
その一方で、花の目と心はほとんど雨に注がれていて、雪は「放っておいても大丈夫な子」と思われているようでした。
川に落ちた雨を助けたときも、雪は、花からねぎらいの言葉も抱擁も受けることなく、黙って花と雨のそばに座っていました。
嵐の日も、花はひたすら雨を心配し、雨を追い、学校で待っている雪のことなどまるで忘れてしまっているようでした。迎えが来ないまま取り残された雪は、そうなることをあらかじめ悟っていて、あきらめているような表情に見えました。
(花が雪にワンピースを縫ってあげたエピソードがあって、ほんとによかったと思います)
雨がおおかみとして生きていくことを選んで花のもとを去ったあと、雪が花とともに暮らすことを選択しなかった理由は、なんとなくわかるような気がします。
雪が花を憎んでいたようには見えませんでしたが、聡明で強い雪は、花とは離れて暮らすべきだと判断したのでしょう。
この映画は、成長した雪が過去を振り返りながら語る、というスタイルをとっていますが、その雪の語りを聞くかぎり、雪は花との関係に、気持ちの上で何かの折り合いをつけることができたのだな、と推測することができます。
花と雨と雪の三人の関係は、切なさと、そしてどれほど切なくても親子で姉弟なのだ、というところが、きわめてリアルでした。
母親の間違いを許すことができるか
花は真摯に、懸命に雨と雪を育てますが、「理想の母親像」からはほど遠く、しょっちゅう不適切な行動をとっているように見えます。間違えると言ってもよいかもしれません。
それにもかかわらず、こどもたちはそれぞれに自分の道を見つけ、自立していきます。
そして、映画は、こどもたちを育て上げた花の存在を、最後に肯定しています。花が夢で出会ったおおかみおとこの「君はこどもたちをちゃんと(うまく?)育ててくれた」という言葉で。
どのような思いをもったとしても、全体としてこの映画を受け入れることができるかどうかは、「母親の間違い」または「間違える母親」を許せるか許せないかがキーになるような気がします。
花だけでなく、人間の親はしばしば大切なことを間違えます。
それでも、たいていの子供は、自分の力で育って巣立っていくことができるようです。雨と雪のように。
子供が自分の力を信じて自立していけることは、何より子供にとって幸福なことです。そして、子供の力を信じることができることは、親にとってもとても幸福なことだと思います。
この映画から「心配しなくてもなんとかなるよ、大丈夫だよ」というメッセージを受け取ることができた人であれば、立場を問わず、この映画を肯定的に受け止めることができるのではないでしょうか。
一方、ちょっとしたボタンの掛け違えで、たとえば雪はグレてしまったかもしれず、雨はずっと家に閉じこもったままになったかもしれず、そして二人とも、花のとった行動によって癒しがたい傷を心に負うことになったかもしれません。
そのようなあやうさがまるで描かれていないことを、大きな欠陥ととらえる人もいそうに思えます。
たとえば、自分にとって大切なことを間違えた親を許すことができない人たちや、「(母)親が不適切な行動をとることなどあってはならない」と考えている人たちは、花が明確に罰せられることがなかったことについて、強いフラストレーションをおぼえるかもしれません。
この映画について、賛否がさまざまに分かれているのは、このあたりが理由のひとつではないかと推測しています。
賛否のどちらが正しいということはありえないところが、この映画のレビューを書くことを難しくしているのだと思います。
ちなみにわたしは、花も、この映画も、受け入れることができました。
花が夢の中で、おおかみおとこの“彼”にすがりついて「(子育て)うまくできていなかった」と泣きじゃくったこと。去っていく雨に「まだ何もしてあげられていない」と叫んだこと。
これらのことで、たとえ花がどのような間違いを冒したのだとしても、花のすべてをゆるすことができると思ったからであり、また、わたしが花だとしたらゆるされたいと思ったからです。
わたしがそう思うのは、たぶんわたしが親だからで、親というものはなんて勝手なんだと、いずれ子供に言われるかもしれません。
いずれ子供にそう言われたときは、謝るしかないのですが。