ほぼ日刊イトイ新聞、「今日のダーリン」で、糸井さんが書かれていた。
日本の数多くの働く男たちは、
「(ずいぶん楽な)仕事」という逃げ場で、
ほとんどの時間を過ごしているのかもしれない。
ぼく自身の人生も、あとで振り返ったら、
仕事という逃げ場で、汗をかいたり歯を食いしばったり、
そんなふうなことで費やしている時間が、
ものすごく多かった、と気付くんだろうなぁ。
いえいえ。これはいつものような「ほら、だから男性も家に目を向けなさいよぅ」という論旨ではありませぬ。
(それもちょっとはあるけど☆)
ある意味「男性的」に学び、働いてきた自分のことを思ったのでした。
この引用の前に、ご家族が入院中のご友人の言葉として、
自ら臨まない経験のほうが、結果、
自分の力をつけることになるんだなぁと、
身にしみます
とあったからです。
育児そのものは「自ら臨んだ」経験ですが、心の準備ができていなかったできごともしばしば降り掛かります。
そして、やがて直面するだろう介護のこと。
これまで無邪気に「男性並に」学び、働いてきたときには考えもしなかったことに、思いを馳せるようになりました。
研究や仕事に打ち込んだ経験があり、しかもその経験が浅い私には、「自ら臨んだ」経験がすべてDivertissmentであると、パスカルのように言い切ることはできません。
でも、「自ら臨まない」経験にこそある何かに、少しずつ気づくようになってきました。
いらだつときは、何に対していらだつのか。
ほしかったものが手に入らなかったとき、それはどうしてほしかったのか。
いつでも、自分の情動の奥にあるものを見抜けるようになりたいと思います。
実利に直接結びつかない学問に意味があるとすれば、「自ら臨まない」経験に対する処し方を助けることではないでしょうか。
コントロールしがたい情動に光を当てることも、哲学としての科学の意味であると思います。
註:「臨む」について
メールでもご指摘をいただきましたが、「自ら臨む」の「のぞむ」は「望む」の誤変換ではないか、と思われている方も多いのではないでしょうか。
「自ら臨まない」は、もとの糸井重里さんの記事そのままを引用しています。
私も最初は「あれ?」と思ったのですが、あえて同じ表記を使いました。
「自ら相対する」という意味で、この漢字を用いたのかもしれない、と考え直したからです。
国語辞書を見ると、向かい合う、面する、対する、出席・参加する、といったことばで置き換えられているので、あながち突拍子もない使い方でもないのかもしれない、と考えましたが、国語のプロではないので、私の解釈は間違っているかもしれません。