それでもニール・ヤングは「イマジン」を歌う

昨夜、アメリカのテロ犠牲者追悼番組「America: A tribute to heroes」を見た。

スティービー・ワンダービリー・ジョエルセリーヌ・ディオン、スタローン、ブラッド・ピットモハメド・アリなどの大スターが集まり、寄金を呼びかけるというもの。


そのプログラムの豪華さに加え、歌の合間に語りかけられるスターたちのスピーチが個性豊かで聞きごたえがあった。

そのうちロビン・ウィリアムズの言葉:「勇気とは恐れを知らぬことではない。恐怖を直視しながらそれに立ち向かい、進んでいくことだ」


プログラム中盤、暗いステージに響きだしたピアノの前奏に驚いた。

アメリカで放送禁止(自粛?)になった「イマジン」だったからだ。

ライトがつき、ニール・ヤングが歌い始め、そしてやっぱり、なんていい歌なんだろうと思った。


たとえば、あのテロの悲劇について悲しみと憤りをもって語るアメリカの人々に、「原爆を落としたくせに、枯葉剤をまいたくせに、自分だけが正義であるという顔をするな」と言うのは、間違っていると思う。

事件で亡くなったり、傷を負ったりした人が1万人いるとすれば、その家族や友人は100万人を超すだろう。今、アメリカで涙している人々のうち、原爆で人間を殺戮することが正しいと思っている人は、ほとんどいないにちがいない。

私は、かつて中国で信じられないような大虐殺をした国の国民だが、残虐な行為が正しいなどとは思わない。その私と、今のアメリカの人々の大部分とは、同じに思えるのだ。悲しみは、誰が悲しんでも悲しみなのではないか。


嘆く者とともに嘆くことを、あれほどまでに素直にできるアメリカの人がうらやましいと思った。

翻って、日本ではどうだろう。想像力のない、能面よりも表情のない、感じること・考えることをやめてしまったような人々が街にあふれつつある。その中で、私の心にも氷点があり、日々それは成長を続けている気がする。

それはテロと同じくらい恐ろしいことだ。


ところで、今アメリカでは熱狂的に愛国心が高まり、星条旗のもとに国民が強く団結しているとのこと。敵がいなければ、あるいは敵を想定しなければ、隣人と手をつなぐことができない、ということなら、あまりに悲しい。手をつないで新たな殺人をおかすのなら、なんのための団結か。


今回の「A tribute to heroes」でも、くりかえし聞かれた言葉は「freedom」だった。

アメリカの人々が、何をおいても自由を至上の価値とする気持ちを、正直なところ理解し得ている自信がない。彼らがそれほどに希求する自由は、私の考えている自由とはまったく違うものなのだろうか。

アメリカの人々は自由に対する感受性がとても強いのだろうか、それとも、もしかして、とても不自由な毎日を暮らしているのだろうか。


などと、いろいろなことを思った夜だった。


放映の後、グレン・グールドの特集をやっていた。

メニューヒンのバイオリンがすばらしかった。

そして今日、アイザック・スターンが亡くなった。