Divertissement

このところ読んでいた加藤周一の本に、ちらっと出てきたので思い出した。
昔、高校の現代文の教科書にあった「Divertissement」の意味である。

この言葉は、「娯楽」とか「愉しみ」とかの意味にふつう使われているが、
本来は、本質的なことから目をそらし、気を逸らすための「気晴らし」という意味なのだ、
というような話だったと思う。
きちんと議論するなら、神から目を背けた生き方という話になるかもしれないが、
私はクリスチャンではない上、そのあたりについて、今のところきちんと考える余裕がない。

ただちょっと、考え込んでしまったのだ。

ひと頃より「過労死」が騒がれなくなったし、workaholicの批判も薄れてきた。
仕事中毒というのも一種のDivertissementなんだろうが、
命を落とすほど働く「ジャパニーズ・ビジネスマン」は、もう流行らない。
仕事は仕事、余暇を楽しむためのものと割り切って、上手にバランスを取る人が増えたのかもしれない。

私は青臭い人間だから、「夢」とか「成長」とか「一心不乱」とか、そのへんがけっこう好きだ。
さすがに、努力がすんなり報われるケースは稀らしいということはわかったが、
本心から願えば、たいていのことはなんとかなる、という味も占めてしまった。
だから、凝りもせず、夢を見る。つまずいては悲しみ、うまくいけば飛び上がって喜ぶ。

「そんなに感情を動かしてたら、疲れるじゃないですか」
と先日、同僚のEくんにも言われたが、
お前はMか、というくらい(けっこうMだけど)、それをくりかえす。
確かに、ときどきしんどい。

精神を平らかに、心安く生きている人たちは、なんて知力・情ともにすぐれているんだろう、と
いつも思う。
でも、みんなが楽しく、満足して生きているにしては、この国の空気や人々の肌触りは殺伐としている。

その楽しさは、「気晴らし」に過ぎないんじゃないか。
何かから、目をそらしてはいないか。
どこかが違っているような気がする。
私たちが目をそらしたがっているものは、なんだろう。

あふれかえるDivertissementの大波に、のみこまれるのは心地よい。
でも、のみこまれてしまえば、愚民化するのは目に見えている。

今、この国を乗っ取るのは、けっこう簡単なんじゃないだろうか。
わりとヤバイんじゃないかと思うけど。

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Divertissementの権化のようなモーツァルトを聴いていると、返って、
諸々の本質的なことごとが押し寄せてくるような気がする。

ま、キザなんだけども。