科学と生活のイーハトーヴ

Seeking for Ihatov – Utopia – of Science and Life

2011/04/05
by Yukiko FUJII
0 comments

白鳥入芦花

子供のころから何度となく読み返した本に、下村湖人の『次郎物語』がある。

 この年になってもまだ、わたしの中には小さな本田次郎が棲んでいる、と思う。

 中学生になった次郎は、おそらく生涯の恩師となる、朝倉先生と出会う。志ある中学生たちが集う朝倉先生の家の額に掲げられたことばが「白鳥芦花に入る」である。

次郎が、その額とにらめっこしながら意味を考えているとき、朝倉夫人はこうヒントを出した。

「芦の花って真白でしょう。その真白な花が一面に咲いている中に真白な鳥が舞い込んだっていうのですわ。」

(次郎物語 第三部)


 わたしはずっと、そのように生きたいと願ってきた。そして、これからも。

 もっとも、こう言明することそのものが「白鳥芦花に入る」の心境とは矛盾する。そこが、わたしがいつまでも次郎である所以だろう。


2011/03/29
by Yukiko FUJII
2 Comments

保育園の文集に寄せて


なくなったものと

まだ ここにあるものと

かわったことと

ずっと かわらないことを

ぜんぶ ぜんぶ ちからにして

みんな みんな おおきくなれ

おめでとう みんな




(一部改変)

2011/03/28
by Yukiko FUJII
0 comments

震災後の生活

震災から2週間経ちました。

宮城県を中心に津波による甚大な被害が出ており、被災地の皆さんの悲しみや苦しみを思うと、ことばが出ません。
復興のために、東京でできることを、せいいっぱいしていこうと思います。

東京は被害が少なかったとはいえ、今日までにはいろいろなことがありました。

自分の気持ちを整理するために、ちょっと振り返ってみます。

地震当日

大地震のあった金曜日。わたしは都内の事務所で仕事をしていました。子供は風邪をひいていたため、保育園を休んで夫といっしょに自宅にいました。

今までに経験したことのないような大きな揺れが、たて続けに2回襲い、職場もさすがに騒然となりました。

自宅にいる家族の安否が気にかかりましたが、携帯も固定電話もつながらず。
どうしようと思っていたら、ツイッターで夫と連絡がとれて一安心。
この日はツイッターさまさまでした。

わりと早いうちに、自由に帰宅してよいとの許可が出ましたが、都内の鉄道はすべてストップ。タクシーやバスには、とうてい乗れそうもない状態。
夜まで待っては、どうなるかわからなかったので、歩いて帰宅し始めることにしました。

5時ごろに職場を出て大きな道をひたすら歩き、7時ごろに自宅に到着。ツイッターの皆さんに励ましをいただきながら歩けたこともあって、意外に短いみちのりでした。

つらかったのは、「靴」です。
ショートブーツだったため、途中で足に水ぶくれができて、かなりの痛さになりました。100均ショップに立ち寄って靴下を買い、応急対応。避難靴をふだんから用意しておけばよかったと、つくづく思いました。

体調悪化

地震のあとも、余震や、原発事故による電力不足などで、緊張を強いられる毎日でした。

権利をお預かりする仕事をしている以上、絶対に落としてはいけない期限もあり、地震のあと一週間はなんとか出勤しましたが、、先週の土曜日に38度を超す発熱。
その後は酷い中耳炎にまでなり、左耳の鼓膜を切開。
それでも高熱は木曜日まで続き、大変な目にあいました。

ちなみに、まだ左耳の聞こえがとても悪く、薬をのんで治療中です。

やっぱり、自分の体力や精神力を過信しちゃいけません。早めに休養をとることの大切さを痛感しました。

同じように(あるいはもっとひどく)体調を崩していらっしゃる方も多いのではないでしょうか。

いつもどおりではない状況で、いつもどおりを保つのは、ほんとうに大変なことです。
みんなが休みたいときに休めるように、支えあっていきましょう。

先はなかなか長そうですから。

原発のこと

東京電力の原子力発電所が、津波の被害を受けて、危険な状態になっています。

避難や自宅待機を余儀なくされている地元の方々には、ほんとうに申し訳なく思います。東京のために、リスクを負っていただき、その結果としての災害をもこうむられたわけですから。

すべての原子炉が安全停止し、放射性物質の漏出が止まるまでには、まだまだ相当長い期間がかかることが予想されます。

水や牛乳、野菜から放射性物質が検出されることもあり、幼い子供の親としては悩ましいところです。この問題について、わたしは次のように考えています。

まず、牛乳や野菜について。これは、基準値を超えた放射性物質を含むものは出荷されないことになっています。
つまり、市場に出回っているものはすべて放射性物質は基準値以下。
食品の小売業者さんや製造業者さんの中には、自主的に、食品の放射線量をさらにチェックしているところもあります。
だから、わたしは牛乳や野菜については産地を問わず、食べ続けます。

次に、水について。先日、東京の浄水場から、乳児の飲用基準を超える放射性ヨウ素が検出され、厚生労働省から乳児は飲用を控えるようにとの通達があり、大騒ぎになりました。

雨の影響で、一時的に水の中の放射性物質の量が増えたようで、今は放射性ヨウ素も基準値以下に減り、飲用制限は解除されています。
とはいえ、おそらくは今後も、雨が降るたびに、一時的に放射性物質の量が増えることになるのでしょう。

このような通常より高いレベルの放射性物質を含む水についてですが、私自身はそれをがぶがぶ飲むことをためらいません。
そもそも、私はいい年をした大人で、細胞分裂のスピードも(かなしいかな)ゆっくりになっているはずで、乳幼児よりはよほど放射線に対する感受性が低いからです。その上、このようなごく微量な放射性物質よりも、よほど体によくないものを日常的に摂取しているからです(たとえば、お酒とか、お酒とか、お酒とか!)。

しかし、「自分の子供にも、そのまま飲ませ続けます」と言えるかどうか。これは躊躇します。
今、発表されているデータを信じる限りは、4歳の子供に1年間飲ませてもおそらくまったく問題はないでしょう。でも、乳児に飲用制限が出ている水を、そのまま幼児に飲ませるのは、感情としてかなり抵抗があります。
また、原発の状況が長引くことを考えると、ふだんからできるだけ被曝量は抑えておきたいという気持ちもあります。

そんなこんなで、あれこれ思い悩んだのですが、料理用の水をふくむすべての飲用水にミネラルウォーターを使うというのは、どう考えても非現実的な話です。
結局のところ、気休め程度に浄水器をとおした水を使い、雨が降ったら少し気をつける、くらいしかできることはないのかな、くらいに考えています。

ところで、乳児のいるご家庭では、調乳用の水に悩んでいるおうちも多いのではないでしょうか。
今後、雨が降るたびに、先日のような「水パニック」が起きては、赤ちゃんのご両親や保育施設はくたびれはててしまいます。なんとかいい施策がほしいところです。

長期的にも健康への影響がないことが明確な範囲において、飲用制限の暫定基準値を上げるのはどうでしょうか。
それが無理で、今後も毎回、飲用制限の通達を出すという方針であれば、赤ちゃんのいる家庭や保育施設が水を手に入れやすい環境を整えてほしいと思います。

放射性ヨウ素は、イオンの形で水に溶けているものが多いでしょうから、イオン交換水をつくることで、放射性ヨウ素をのぞいた水をつくることができるのであれば、たとえば市役所や出張所等に、イオン交換水をつくることのできる浄水器を設置することはできないでしょうか。

先は見えないけれど

 被災地の復興も、原発の状況も、今後の電力の供給についても、先が見えないことだらけです。

 駅もオフィスビルも電灯が消されて暗く、夜になっても点けられる街灯は少ない。お店に行ってもなんでも手に入るわけではない。

 ほんの2週間前とは、まるで世界が変わってしまったようです。

 しかし、世界の見た目が変わっても、変わらないものもたくさんあることは確かです。

 変わってしまったことや変わらないことと、どう向き合っていくか。答えはまだまったく見えていませんが、裸一貫の自分が試されているような気がします。

2011/02/18
by Yukiko FUJII
0 comments

『不完全な世界で「子どもを護る」ことについて考える』(川端裕人、中央公論3月号)を読んだ

川端裕人さんの『不完全な世界で「子どもを護る」ことについて考える』(中央公論3月号)について。

例の「東京都青少年の健全な育成に関する条例」を題材に、根拠に基づいた防犯や、市民社会においてわたしたちが行動するために考えるべきことなど。

キーフレーズのひとつは、

いずれにしても、リスクはゼロになりえず、どこで折り合いをつけるかというのが我々のテーマだ。


体感治安が悪くなっているということは、わたし自身も感じている。
わたしが育った時代よりも、ずいぶんと息苦しいような、親として気をつけるべきことが多すぎるような、そんな感覚。

川端さんの論文はまさに、「何を、どこまで?」について、どう考え、行動していったらよいのかを論じている。

医療問題や食の問題にもつきまとう「ゼロリスク志向」の弊害がここでも登場する。
つまり「本来あってはならないこと」だけど、決してゼロにすることはできないリスクをどう扱うかだ。
護るべきものがある方々に、ぜひ読んでいただきたい。

以下は、わたしのつぶやき。

医療問題にしても、食の問題にしても、お上まかせで安心を求める段階をとうに過ぎている問題は増えるいっぽうだ。
それなのに、これらの問題に主体的に取り組むべき市民社会の構成が、あまりにも弱々しいんじゃないか。

社会を構成するマジョリティのサラリーマンたち(男女とも)は、こういった生活の諸問題に割く時間がぜんぜんないように見える。
本来、さまざまなリスクコミュニケーションを積み重ねていかなくてはいけない生活の場に、彼らの存在がほとんどない。

つまり、企業社会と市民社会が分断されているようにわたしは見える。生産労働と再生産労働の分断と読み替えれば、目新しくもない課題だけれど。

生活の諸問題はお上か「家にいる人」に任せておけばよい、というシステムで、たぶん企業社会は動いている。
これまでは、それである程度の経済合理性は追求できてきたかもしれないけど、そろそろそうはいかなくなっているはずだ。
生活の諸問題に取り組むことを、企業社会の外側に追いやってきたツケは、たぶん企業社会の成り立ちをも揺るがすかもしれない。

語り合い、考えていくためには、市民社会にはまだまだメンツが足りない。多様性があった方がいい。

早い話が、長時間労働どうにかしようぜ、ってことです。