『かぐや姫の物語』を観てきた(ネタばれあり)

期待を裏切らない、美しい映画だった。

ストーリーをごく短く要約しようとすれば、「竹取物語」そのものになるだろう。

しかし、かぐや姫という女性の感情が躍動的に、かつこまやかに描かれているため、まったく違う物語に見えた。

 

この映画のキャッチコピーは「姫の犯した罪と罰」というものだ(高畑監督は、このキャッチコピーには反対だったようだが)。

 

かぐや姫の犯した罪について、原文には、月の都の人が竹取の翁に語った言葉として

「かぐや姫は、罪を作りたまへりければ、かく賤しきおのれが許にしばしおはしつるなり。罪のかぎり果てぬれば、かく迎ふるを……」

と書かれているだけである。かぐや姫がどのような罪を作ったのかは語られていない。

この映画の中でも、かぐや姫が地上の生活に憧れたことで地上に降ろされた、としか述べられておらず、何がどう罪とされたのかについては、はっきりとは表現されていない。

 

ただ、おそらくこういうことではないか、ということは読み取れる。

 

月の住人であったかぐや姫は、地上の俗謡をふと耳にしたことをきっかけに、地上の世界に憧れを抱くようになる。

「まわれ まわれ まわれよ 水車 まわれ

まわって お日さん 呼んでこい まわって お日さん 呼んでこい

鳥 虫 けもの 草 木 花

春 夏 秋 冬 連れてこい 春 夏 秋 冬 連れてこい」

 

この物語における月は涅槃のような場所で、この地上はさまざまな生命が転生を繰り返す輪廻の世界なのだろう。輪廻の世界から涅槃の世界へと解脱することはあり得ても、その逆はあり得ない。

かぐや姫は、既に涅槃の世界に住んでいたにもかかわらず、憧れてはならない輪廻の世界に憧れてしまったことゆえに罰され、苦界である地上に降ろされたのではなかったか。

 

物語の前半、地上に生を受けたかぐや姫が、竹取の翁と媼に愛され、村の子供たちと野山を駆け巡って、すこやかに成長していく姿は、生きることの喜びをこころゆくまで享受しているように見える。

 

しかし、翁の意向で村を離れて都に上り、「高貴な姫君」としての生き方を強いられるにつれ、かぐや姫はさまざまな苦しみを味わうことにもなる。

眉を抜かれることやお歯黒を塗られること、男性たちの好奇の目にさらされることに抵抗し、怒り、諦め、いつわりの愛情を受け入れることに抵抗し、その自分のために人の命が失われたことに慟哭する。

かぐや姫の味わった苦しみは、現代を生きる女性たちにも通じるものだ。

 

ついに、帝の強大な力がかぐや姫に向けられたとき、かぐや姫は思わず「このようなところにはいたくない」と願う。おそらく、そう願ったことによって、地上の世界に憧れるというかぐや姫の犯した罪が許されたのだろう。月からの使者がやってくることになる。

 

月に迎えられるまでのほんの刹那、かぐや姫は幼なじみの捨丸と逢い、互いの気持ちを確かめ合うことができるのだが、二人が故郷の野山や空を飛び回る場面は、男女の合歓をこよなく美しく表現しているものだと思う。

 

やがて、場違いなほど陽気な音楽を奏でながら、色彩と表情だけが乏しいエレクトリカルパレードのように、月の人たちがやってくる。救いを与える立場の全き善を疑わない、無神経で暴力的な明るさで。

 

月の羽衣をまとってしまえば、地上での記憶はすべて消え去る。穢れも消え去るのだ、と月の人に言われたとき、かぐや姫は最後の反抗をする。「穢れなんかじゃない」と。

 

生きとし生けるものが、その生を喜び、悲しみ、苦しみ、そして別の生へとつないでいく営みは、決して、否定し捨て去るべき穢れなどではないのだ、という徹底した地上の生の肯定こそが、かぐや姫の残した叫びだった。