読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ETV特集「暗黒のかなたの光明~文明学者 梅棹忠夫がみた未来~」

つぶやき

表題の番組を、録画でみた。

震災と原発事故のあと、これまで日本の文明を支えてきた価値観の多くがゆるがされていることをうけて、何十年も前から今日の状況を予言してきた梅棹忠夫さんの思考の足跡をたどっていく、という企画だ。

ナビゲーターは荒俣宏さん。

梅棹さんは昨年亡くなったが、『人類の未来』という題名の未完の原稿を残されていた。最後の予言ともいうべきこの原稿に沿って、番組は進行する。

印象に残った点をいくつか。

科学は人間の“業”である

未来社会といきがい』(1970年)から、「真実をあきらかにし、論理的にかんがえ、知識を蓄積するというのは、人間の業なんです」というフレーズをふくむ一節が紹介された。

国立民族学博物館の小長谷有紀さんが解説していらしたように、食べることをそっちのけにしてでも考えることを欲することが、人間を人間たらしめる最大の欲望であり、それ自体を梅棹さんは決して否定するものではなかった。

しかし、その魅力的な特質こそが、同時に文明をとめどなく破滅にむかわせるものでもあり、そこにうまれる相克が常に問題となる。

「◯◯が問題だ」とわかったとき、「◯◯をやめればよい」で解決する問題ばかりではない。

特に、考えること、考えをつみかさねていくことをやめるというのは、人間が人間であることをやめることだ。

梅棹さんは、「業をコントロールする」ということをおっしゃっていたが、はたしてどうすればそれが可能なのか。答えはもちろん、番組中でも出なかった。

「あれか、これか」ですぐには答えの出ないことを、そのままに扱いつづける知的体力が必要であるということを、あらためて痛感するばかりだ。

梅棹さんの有名なことばに「自分の足であるき、自分の目でみて、自分の頭でかんがえる」というものがある。

そこには常に膨大な対話があった。

民族も職業も立場も、あらゆる違いをとびこえて、梅棹さんを中心に積み重ねられてきた対話。

おそらく今、そのような対話が、インターネットを通じて無数の市民たちへとひらかれてきていると思う。

番組の最後に、梅棹さんの『アマチュア思想家宣言』が紹介されたが、その可能性が今まさに広がりつつあるような気がする。

自分ひとりの知的体力に自信がなくても、たくさんの人に支えられてなんとかなる場合も出てくるかもしれない。

理性対英知

『人類の未来』の目次に残された「理性対英(知)」ということばを、宗教学者山折哲雄さん、ルポライターの山根一眞さんたちが読み解いていて、それぞれにおもしろかった。

山折さんは西洋的な考え方の例として、「生き残りの物語」であり、それと表裏をなす「犠牲の物語」でもある、ノアの方舟の話を出された。それと対比されたのは、全員を救う物語としての法華経譬喩品の「三車火宅」のたとえ話。

山折さんは、前者を「理性」とし、後者を「英知」として、その対立と融和について考えていらっしゃるようだった。

このあたりの話を聞いていて、わたしが思い出したのは、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』だ。

選ばれた者としてのカンダタが他者を犠牲にして生き残ることを望んだ瞬間、全員が平等に救われることなく地獄へ落とされたという話は、西洋の「理性」と東洋の「英知」の相克について悩んだ芥川が出した、シニカルな結論であるかもしれない。

暗黒と光明

『人類の未来』の目次の最後には、「光明」ということばがある。梅棹さんがどのようにして暗黒のかなたに光明をみたのか。

番組の最後に荒俣さんは、暗黒の中にいるからこそじっくり考えられることがある、みることのできる光明がある、というような趣旨のことをおっしゃっていた。

前向きなことばをきらう向きもあろうし、いま、絶望の中にいる人たちに、むりやり光明を見いだせと強要することなどできない。

特に、被災地のためになにかできることを、と考えるときには、「わたしがどう思うか」などということよりも優先させなければならないことがある。

それはそれとして、あくまでわたしの個人的な価値観の変動に向きあうためには、荒俣さんのことばが今後も支えになるだろうと思う。