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天使とわたしとカタツムリ 〜または私の高校二年生時代〜

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 高校二年生のころに授業で書いた作文を発掘した。

 この年ごろ相応の未熟さ、傲慢さはあるものの、このあたりが私の原点のように思える。

 なつかしかったので、紙が散逸する前に記録しておく。(読みやすいように改行のみ入れた)

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 去年の六月のことである。

 雨の降った翌朝、登校しかけて、ふと見ると、マンションの一階の廊下の塀の上に、長いながい銀色の道がついていた。かたつむりが夜通し歩いていたらしい。その道を追いながら、かたつむりは雨の夜、いったいどんな顔をして歩いていたのだろうか、と妙にしんとした気持ちになったことをおぼえている。

 そのころの私は、歩く、ということを全く考えていなかった。いわば天空の高みから、全世界を把握するようなことばかり考えていた。本を読みさえすれば、居ながらにして、すべての偉大な思想が自分のものになると思い、そうすればコウナル、アアナル、と夢はふくらむばかりで、その夢と現実の成績とのギャップに悩む毎日であった。

 はたから見れば笑いごとであろうが、自分では偉いつもりでいる劣等生のつらさ、というのは筆舌に尽くしがたい。エジソンを引き合いに出そうが、遠藤周作を持ってこようが、現実はどうにもならないのである。

 そんな悶々の日々の中で見た、ひとすじの銀色の道だから、すぐに忘れてしまったのだが、つい最近、ふいに私の胸をよぎった。それと同時に、あのかたつむりが、長い夜の間、ずっと聴き続けていたに違いない雨の音もよみがえった。そして、もしかして私は、「歩く」生き方をしても良いのではないか、と思いついた。

 つらさの原因は、「飛びたい、飛びたい」と願うことにある。そう願いさえしなければ、楽になるのだ。かたつむりは、生まれて以来、雨の夜にマンションの塀の上を歩くことのほか、何もしていない。播かず、刈らず、である。私がそうしていけないわけはない。

 もっと考えてみれば、「飛ぶ」という特権的な、天使の生き方をすることは、おそらく人間誰しもが願っているだろう。とすれば、願いは既に特権ではないのだ。

 柄谷行人は、現代のわれわれは、ブラウン管を通じてあらゆる事象を経験する「天使」であり、だから「天使」たることがわれわれの生の条件にまでなっている、と言っている。つまり「飛ぶ」生き方自体も、既に特権ではないのである。

 満員電車の隣の吊革につかまって、「ヤング・ジャンプ」を読んでいるハゲオヤジだって、青年時代はカントだ、ヘーゲルだと言っていただろうし、今は会社のつまらぬ仕事に、日本の経済を動かす幻影を、必死に見ようとしているのかもしれない。

 人間が皆、このように「天使」であるならば、果たして初めから「天使」で“だけ”いよう、ずっと天空の高みを飛びつづけよう、とするのは、そんなに良いことだろうか。

 むしろそれは「歩く」ことを忘れた、人間のなりそこないではあるまいか。

 自分を取り巻く世界に、何かを実際になし得たかどうかによって、生きる上での不安は増減する。人間のなりそこないの「天使」でいては何もできず、不安は増すばかりである。私は何かをしたいのだ。

 だから、私は歩きたい。雨の夜通し、歩きつづけた、あのかたつむのように、まわりの音を聴きながら、歩きたい。

 我々は、一度徹底的に「天使」となるのでなければ「人間」にはなれない、という。確かに私はあまり優秀な「天使」ではなかったが、もうそろそろ「人間」となることを、神さまも許してくださるのではないか。

 そして、「人間」の私のこれからが、ずっと夜であってもかまわない。ただ、私の歩いたあとに、細くても良いから、長いながい銀色の道が残ることを願う。

<了>