包丁研ぎとダンコーガイの憂鬱

先日、包丁を砥石でしゃこしゃこ研いで、とっても気持ちのよい切れ味になった。

包丁研ぎって、実家ではいつも父がやっていたし、なんとなく「男の仕事」なイメージがあったのだが、夫はやらない(たぶんやったことがない)。

で、やってみたら自分でもできるし、けっこう楽しかった。


で、包丁を研ぎながら、ダンコーガイの嘆きを思い出した。

そんな苦労が出来ないバカヤロウな男ですごめんなさい


こういうのも何だが、読了後には「男のライフはゼロよ!」という気分にもなってくる。


なぜなら、彼女らは男に全く期待していないからだ。


そういえば、わが家では、車の運転も私だなあ。

夫も運転できないことはないのだが、インドア派だし、率先してハンドルを握ってどこかへ行きたがるタイプではない(高速すら未経験)。

近所の外遊びスポットを見つけてきて、娘を連れていくのもほぼ私。

家具の組み立てやオーディオの配線も私。

もちろん毎日の食事の準備も私。(洗濯、掃除は私の母にかなり依存)

ちなみに私はフルタイムで働いている。


これらのことについて、夫にやってもらうことは期待していない(全部私がやりたくてやっていることだし)。

もちろん夫もできる限りの「手伝い」と「協力」はしてくれていて、実際助かっているのだが、たぶん、夫がいなくても私は娘と暮らしていけるだろう、と思う。


でも、「夫には期待しない」ということと、「夫なんかいない方がいい」ということは、全然違うのですよ、ダンコーガイ。だからそんなに泣かないの。


いや、正直に言って、平日は例外なく午前様で帰って、パソコン見ながら食事を適当に食い散らかし、週末には自分のペースで休養する前提で行動し・・・という姿が目に入ることが続くと、どうせなら視界に入らないところで好き勝手やってくれ、という気になることはありますよ。

きっと、この気持ちがエスカレートすると、「夫なんかいない方がいい」になるんだろう。(ついこの間も、そう思いかけた)


でも、やっぱり、そう決めつけてしまうのは哀しいことだと私はおもう。

「夫がいなくても大丈夫」という健気な思いを、「夫なんかいない方がいい」という攻撃的な思いに変えてしまうものはなんだろう?


それは、依存心を愛と勘違いしてしまう、心理のトリックだ。


若い妻が「夫は家庭を顧みない」と訴えたとき、経験ゆたかな女性の先達が、何と言ってアドバイスするかご存じですか?

曰く「期待するから、裏切られるとがっかりする。期待しなければいいの」


この場合の「期待」は「依存心」と読み替えてもいいだろう。なぜなら、自分の期待が叶えられることのみに、自分の幸福の成就を依存しているからだ。

だから、「期待することをやめる」ことは、そのまま女性の心理的自立につながる。

このとき、そのカップルの絆が、完全に対等な相互の尊敬のもとに結ばれていたなら、自立した理想的な男女関係に発展するだろう。


しかし、そのカップルの絆が、女性に対する男性の扶助(庇護でもよい)を前提として結ばれていた場合はどうか。

女性は、「男性の扶助がない→その男性にはパートナーとしての価値がない」とみなし、その絆は崩壊する。

男性が、「女性を庇護する必要がない→俺は必要とされていないから、この女と一緒にいる意味はない」、と短絡する場合もあるかもしれない。この場合、男性も「自分より弱い女性を守る」というプライドに依存している。


それ、愛じゃないよね?


つまり、女性が自立して壊れてしまうような絆には、初めから愛などなかったのだ、と私はおもうのだ。


そしてもちろん、自立した男女の絆、というのは存在する。

経済上、女性が「養ってもらっている」ような夫婦であっても、互いの稼ぎと思いやりの量をギスギスと天秤にかける共働き夫婦より、よほど互いに自立している場合だってある。

ダンコーガイが悲観するほど、それは希少なものではないとおもうのですよ。


とはいっても、パートナーが「この状態はつらい」「こうしてほしい」と訴えたら、やっぱりその思いは受け止めてほしい。

行動を変えることができないのなら、言葉だけでもかけてほしい。

お互いの思いがすれ違うことのないように、話をしてほしい。


何もできないのなら、せめて笑顔でいてほしい。

笑顔ですらいられないのなら、あなたがいつか笑顔になることを、そばで祈っている人のことを思い出してほしい。


私は自分で包丁も研げるし、お金も稼げる。

でもやっぱり、夫がそばにいるとうれしいと思うよ。