科学、ニセ科学、グレーゾーンについて

ちょっとほとぼりが冷めてきたかな-、というところでおそるおそる。

菊池誠先生のところで話題だった「グレーゾーン」問題について。


ニセ科学批判やらニセ科学批判批判やら、この業界も何かとかまびすしいわけですが、「科学とニセ科学のあいだにはグレーゾーン(それも、たぶん非常に広い)があり、線引きはできないし、してもしかたがない」というきくち先生達のご認識、これは至極まっとうなものであり、たぶん“科学者”と呼ばれる人たちの大方が、同じような感覚を共有されているだろうと思います。私もそうです。


ここでは、その線引きをいかにするか、というか、しないか、ということを問題にしません。

ニセ科学批判」のあり方について、少々ふしぎに思ったことがありました。


そもそも人は、信じたいと思ったことを信じるもので、それが一見「科学的に見える」から信じるわけではないでしょう。

科学のような装いの下に、自分の信じたい情緒や信条を見て、それを信じているはずです。

だからこそ、「それは科学ではない」という批判が、ニセ科学に“だまされる”人たちの耳に届かないわけです。


ニセ科学批判というものが、ニセ科学に“だまされる”人たちを“救う”ことを目的としているのだとしましょう。

そうすると、そもそも「科学的か否か」ということに価値をおいていない人たちに向けて、「科学」ということばを用いて説得するのは、あまり当を得てないんじゃないでしょうか。

それはダメだ、という主張の理由として、「なぜならそれは科学ではないから」という説明が、説明にならない(説明として受け取られない)からです。


だとすれば、アプローチは科学的でありながら(それは、グレーゾーンの検討も十分にする、という姿勢を含む)、しかし、プラクティスとしては「科学的」「非科学的」ということばを用いない、という手法もあり得るのではないでしょうか。


タミフルバッシングについてでも、マイナスイオンについてでも、EM菌についてでもかまいません。

個々の事例について、それを良しとする判断とその結果予想されるリスクについて、「科学」という言葉をまったく用いずに、地道に説明していく。

「それは科学ではないから」というひとことで端折るのではなく、科学的なアプローチを「説明」という行動で示していく。

そのことの積み重ねによって、科学的な、そしてタフな思考態度が浸透していく。・・・甘いかな。



つまり、ニセ科学批判の最終的な目標が「生き抜くためのリテラシー向上」だとすれば、そこに「科学」ということばを介在させる必要は、もしかしたらないのかもしれない。

水からの伝言」で、「いい言葉を使いましょう」という目的のために、「水の結晶のできの善し悪し」を持ち出す必要がないのと同様、「ニセ科学にだまされるな」という目的のために、「科学」を持ち出す必要はないのかもしれない。



もちろん、きくち先生たちは、科学という言葉の権威を借りて、ものごとの説明を端折っているわけではないことは承知しています。むしろ、これほどまでに?と思うほど丁寧に、ニセ科学的なものに“だまされる”ことの危険性について、労を惜しまずに語りかけてくださっていて、かなり奏功している(七田式の議論とか)ことを素晴らしいと思っています。

ただ、なんとなくですが、「ニセ科学批判の権威」という肩書きそのものが、本来声を届かせたいと思っている人たちから、その声を遠ざけてしまっているような気がして。

そして、そのことがきくち先生たちにとっては、もしかして本意ではなかったりするのかなー、などと、僭越ながら思ったりしている今日この頃であります。


グレーゾーン論議についても、それが議論のための議論であるのか、それとも、なんらかの現実的なアウトプットを想定しているのか、ちょっと見えづらくなっているのかな、という印象を受けています。

哲学的な議論としては、非常におもしろいのですけどね。