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「ミニ腸」と「ら抜き」

ES細胞から「ミニ腸」

www.ncchd.go.jp
JCI Insight - A xenogeneic-free system generating functional human gut organoids from pluripotent stem cells

生体の腸のように蠕動運動をして、しかも吸収能や分泌能ももつ小さな腸を、ヒトのES細胞やiPS細胞を用いて試験管内で形成することに成功したというニュースです。
朝のテレビで見てびっくりしました。

培養皿に微細加工を施して細胞の自己集合と自己組織化を促したという点、
そして、異種成分(今回の場合だとヒト以外の動物由来成分)をまったく含まない培養環境(ゼノフリー)を用いたという点、
あたりがミソのようですね(ほかにもあるのかも)。

腸疾患のメカニズムについての研究や、治療薬の開発のための研究への応用が期待できます。楽しみです。

論文には、この方法で作ったミニ腸の成熟度合いを確かめるために、ヌードマウスへの移植を試みて成功したことについても簡単に触れてありました。すごいなと思ったのですが、プレスリリースでは、移植治療による臨床応用がすぐにでもできるというような煽り方は一切しておらず、とても誠実な伝え方をしていて素敵だなと思いました。

朝のテレビニュースを一緒に見ていた子供(小4)の感想「うまくいったら、試験管の中でちっちゃいうんこがコロコロできるようになんのかな」

うん。それはちょっと見てみたいね。

「ら抜き」言葉、多数派に

論点 「ら抜き」言葉、多数派に -毎日新聞-

国語学者の金田一秀穂さん、そして劇作家永井愛さんへのインタビュー記事です。

金田一先生は「そもそも『正しい日本語』など存在しない」というお立場で、「いちいち間違いの揚げ足取りをするのはいかがなものかと思う」と苦言を呈しています。
これは、twitterなどでも積極的に発言されている日本語学者の飯間浩明先生も同様のお立場だったかと思います。
上一段活用の動詞の可能形から「ら」が抜け落ちるのが、今よく話題になる「ら抜き」言葉ですが、実は五段活用の動詞にも、かつて(江戸時代頃)「ら抜き」と同様の活用変化があったというご指摘がおもしろかったです。

永井さんは、「ら抜き」以上に過剰敬語の反乱が気になるとのこと。ら抜きは率直な言葉だとも言えるが、過剰敬語はこれとは逆な「欺瞞の言葉」に思えてならないと指摘しています。

お二方とも、言葉そのものより、言葉の本意や言葉が表す精神を大切にしたいというご意見でした。

私はわりと言葉に興味がある方だと自負してはいましたが、自分にとってなじみのない言葉づかいにあまり寛容でないところがあるなと常々反省していたところでした。

私が他人の言葉づかいに不寛容だったのは、私に言葉の知識があるからというわけでは決してなく、ただ「自分とは異なるなにか」に対する感覚的な嫌悪感だったのかもしれず、その嫌悪感を正当化するために、生半可な知識を利用していたのかもしれません。

土井善晴「一汁一菜でよいという提案」

NHKきょうの料理などのテレビ番組、そしてさまざまな雑誌や本でおなじみの料理研究家、土井善晴さん。

私が最初に土井さんのファンになったのは、黒豆のレシピでした。そう、熱い煮汁に黒豆を入れて一晩戻し、それから煮含めるという、かの有名な「失敗しない黒豆」のレシピです。
それからも、料理番組で土井さんの回を見るたびに、おいしそうな料理が魔法のように簡単に美しくできあがるのに見とれ、「これなら私にもすぐできるかも」という気に何度させられたかしれません。そして実際に作ってみると、失敗なくおいしいものができるのです。
ちなみに最近では、豆腐を水切りせずに作る「大根の白和え」(正確には大根と人参の白和え)がびっくりするほど軽く、おいしく、家族の箸も止まりませんでした。

去年の夏、NHKの連続テレビ小説「とと姉ちゃん」の影響で、久しぶりに「暮しの手帖」を読みたくなって、そのときに出ていた83号を買ってみました。そこに載っていたのが、土井善晴さんの「『汁飯香』のお話」です。
お米は洗ったら水を切り、そのままビニール袋に入れて冷蔵庫で保管しておけば、あとは炊飯器の早炊きモードで炊いてもおいしく炊けるとか、お味噌汁は出汁をとらなくても十分おいしいものができるとか、いろいろと目からウロコのお話が、土井さんの普段の柔らかい語り口そのままに伝えられていて、とても楽しい読みものでした。

この「『汁飯香』のお話」の中に要約されている一汁一菜の考え方がさらに詳しく、丁寧に書かれているのが、「一汁一菜でよいという提案」という本です。

一汁一菜でよいという提案

一汁一菜でよいという提案



「一汁一菜のすすめ」といった積極的なタイトルではなく「一汁一菜でよいという提案」という控えめなタイトル。不思議なもので、この方がかえって強く印象に残ります。

私は台所に立つのがどちらかといえば好きな方ですが、帰宅の遅い夫と小学生の子供を抱えて毎日献立を考え、食事を作り続けるのはやはり大変なことです。
ですから、この本を読み始めたときは、どちらかといえば「一汁一菜でよいのですよ。そんなにストレスを感じる必要はもうありませんよ」と、土井さんに柔らかい声で甘やかしてもらえるかな、と期待していました。
読み進めながら、確かに気が楽にもなったし、肩の力が抜けたのはそのとおりなのですが、これは決して単に読者を甘やかす本ではありませんでした。

料理番組などでも、土井さんはよく(料理の一工程ごとに)「けじめをつける」という言葉を使うのですが、おそらくこの本を通じて土井さんが説きたかったことは、食事を含む生活のけじめをつけることの大切さ、なのではないかと思います。
それは、「不摂生な生活を正しなさい」というような道徳的な意味でのけじめをつけることではありません。なんとなくそうすべきだと思い込んでいた結果、私たちの価値観を揺るがせたり縛ったりしてきた「ものの考え方」のけじめをつけることの大切さです。

多くの人が、ハレの価値観をケの食卓に持ち込み、お料理とは、テレビの食番組で紹介されるようなものでなければいけないと思い込んで、毎日の献立に悩んでいるのです。

普段の食事は食べ飽きない慎ましいものを食べて大事に備え、余裕があるときは普段とは違う食べ物を取り入れたり、ごちそうを作ったりして楽しむ。そういった暮らしの秩序を作ることで、さまざまな楽しみや喜びに気づく心や目が養われていくのではないか。
土井さんが言いたいのはそういうことではないかと思います。

私が尊敬する管理栄養士の道良寧子さん(id:doramao)が、以前、こんな記事を書いていらっしゃって、子供の食事に悩んでいた私はとても救われた記憶があります。

d.hatena.ne.jp

ここで道良寧子さんは、「1日毎に見た場合ではでこぼこであっても長い期間でみたらつじつまが合えばよいのですね。自分たちが1ヵ月間に食べたものを1食あたり均等に分けたとき、モデル献立の内容からそんなに離れていなければ良い」「食事は人生の愉しみでもあることも忘れちゃあいけない」と言います。

道良寧子さんはどらねこさんなので、暮らしのけじめといったことは一言も書かれていませんが、少なくとも食事の楽しみと栄養という点において、道良寧子さんのこの記事と土井さんの考え方は通じるものがあるように思いました。
(もちろん、体質や疾患などのために注意しなければならない食品がある人の場合は、また別に考えるべきことがあると思います)

毎日しっかり何品も作らなければならないと思うと、それだけで椅子から立ち上がりたくなくなりますが、「今日は普段のごはんを作ればよい。長い目で見て心と栄養のバランスがとれればよい」と思うと、気軽に台所に立とうという気にもなります。

毎日料理をしてきた人たちにとっては気持ちが楽になり、またごはんをつくろうと思える。
そして、これまで料理をする機会のなかった人たちにとっては、ためしにごはんをつくってみようかな、と思える。
そんな素敵な本だと思いました。

「一汁一菜の実践」のカラーページがとてもおいしそうなので必見です。

作る人が食べる人のことを考えている。料理することは、すでに愛している。食べる人はすでに愛されています。

今年もよろしくお願いいたします

去年はおととしにくらべて3つ多くブログ記事を書けたようです。
つぶやきのような記事ばかりだったにもかかわらず、読みに来てくださった皆さんに心より感謝申し上げます。

今年も同じようなつぶやき記事が多くなると思いますが、もう少し更新頻度は上げていきたいなと思っています。

どうぞゆるりとよろしくお願い申し上げます。

新しい年が皆様にとってさらによい年となりますように。

「この世界の片隅に」を見た

涙腺の緩い私はきっと上映中に泣くことになるのだろうと思っていたが、予想に反して、上映中には涙は流れなかった。
涙は、劇場が明るくなって私の日常が戻ってきた瞬間に、とめどなく溢れ出てきた。

喜びも不満も倦怠もときめきも恐怖もすべてひっくるめて、すずさんの日常がまるごと私の日常と重なってしまった。
隣を歩く娘。
屈託なく笑いさざめくたくさんの買い物客。
明るい午後の陽射し。
私のいる世界の何もかもを、すずさんの目を通して見てしまう。
すずさんの目で見たものに、私の心が反応して涙が出てくる。……すずさんはこんなことでは泣かないだろうとも思いつつ。

こんな体験をするのは生まれて初めてだった。
観客の私がスクリーンの中の世界へ拉し去られたというより、スクリーンの中に生きていたはずのすずさんが私の中に移植されたようだった。

この映画が話題になり始めたころ、「これは戦争映画というより日常映画だ」という趣旨の感想を、SNSなどで多く見かけた。
重苦しい戦争映画を敬遠しがちな人たちにも見てほしいという気持ちで、「戦争映画ではない」という呼びかけをする人たちもいたようだ。

しかし、ここにはごまかしようもなく戦争が描かれている。

あのとてつもなく大きく理不尽な暴力が支配する世界は、間違いなく私の住むこの世界とつながっている。
そのことを、有無を言わせず私たちに納得させる力がある映画だ。

ここのところ気に入っている台所道具

料理クラスタの方には「今さらかよ!」というものばかりなのですが、自分で使ってみて感動したのでご報告です。

おひつ

夫の帰りが遅いので、ご飯は炊飯器で炊いてそのまま保温しておくというやり方が定着していたのですが、保温したままのご飯はどうしてもおいしくない。
炊飯器もだいぶ古くなって、ほんの数十分の保温でも味が落ちてしまう。
鍋炊きご飯はとてもおいしいけれども、そのままおいとくと、カピカピでべちゃっとした感じに。

「炊きたてご飯はすぐおひつに移すとおいしさを保つことができる」という話はよく聞きます。
でも、おひつ……おひつなあ……。洗い物増えるのは手間だなあ……。木でできたものはメンテナンスがさらにめんどうそうだなあ……。
と思いつつ調べていたところ、なんとセラミックのおひつというものがあるじゃありませんか!

ご飯を入れたまま冷蔵庫で保存できるし、レンジで加熱もできる。
おそらく食洗機も大丈夫だろうと踏んで、買ってみました。セラミックおひつ。


トーセラム セラミックス おひつ君 黒 3合用 S-40B

トーセラム セラミックス おひつ君 黒 3合用 S-40B

これです(1合用もあります)。

思っていたよりずっと軽い。どこかの旅館でこれと似たものを見たような気もします。
さっそく、鍋で炊いたばかりのご飯を入れてみました。
3合用なので、2合とか2合半のご飯がふんわり入って余裕があります。

ふたをしたおひつをポンと食卓に出しておいて、ほかのおかずを並べたのち、いざ、ご飯をお茶碗によそっていただきます。
ちょうどいい具合に湯気が抜けてふっくら。でも温かさとツヤツヤ感はしっかり保てていて、めっちゃおいしい!

少し余ったご飯は、そのままおひつごと冷蔵庫へin。
翌日、これまたおひつごとレンジで1分半ほどチンすると、おひつは冷たいのに中のご飯はしっかり温まっておいしい。
すばらしい!

ところで、取扱説明書をよく読むと、なんとこのおひつ、「オーブンも可」と書いてありました。
もしかするとこれでドリア的なものもイケるのか?? いつかやってみたいと思います。

ちなみにうちで愛用しているご飯釜はこれ。

HARIO ( ハリオ ) フタ が ガラス の 萬古焼 土鍋 ご飯釜 N 3合 GN-200B

HARIO ( ハリオ ) フタ が ガラス の 萬古焼 土鍋 ご飯釜 N 3合 GN-200B

火加減気にする必要なし。強火にかけて、ピーッとホイッスルが鳴り出して泡が盛り上がったら弱火にして1分。火を止めて蒸らし15分でできあがり。

鍋炊きご飯は浸水時間がいるのがちょっとおっくうだと思っていたのですが、前号の「暮しの手帖」(第4世紀83号)の『汁飯香の話』で、土井善晴さんがとてもいい方法を教えてくださっていました。
朝、お米を洗ったら、ざるでざっと水を切り、ポリ袋に入れて冷蔵庫に入れておけばよい(これで吸水は十分)、というのです。そして、ご飯を炊くときは、冷蔵庫から出したお米をそのまま炊けばよい、と。
これはめちゃくちゃラク。しかもとてもおいしいです。

秋に向けて、我が家のご飯態勢が完璧に整いました。
新米の皆さん、いつでもどうぞ!

無水鍋

就職にあたってひとり暮らしを始めたとき、実家からいくつか鍋をもらってきました。
どれも現役で活躍しているのですが、いちばん使い勝手のいいものが、直径20センチくらいのやや厚手のアルミ鍋です。
ふたのつまみのところと、本体の取っ手のところがだいぶガタガタになって、直し直し使っていたのですが、そろそろ限界……というところまで来ていました。

このお鍋に愛着はありつつも、思い切って、前から気になっていた無水鍋を買ってみました。

無水鍋 20cm 【炊いたご飯は、かまど炊きの味】

無水鍋 20cm 【炊いたご飯は、かまど炊きの味】

厚手のわりに軽くて、とても扱いやすいのがよいです。

ためしに温野菜を作ってみました。
冷蔵庫に余っていたキャベツと小松菜を洗ってざくざく切り、予熱した無水鍋にどさっと投入。
ふたをして中火で少し待つと、ふたの間から湯気が少し漏れてきます。そこから3分ほど加熱を続け、火を止めてふたをあけると……
ちょうどいい具合にしゃきしゃき感が残った温野菜の完成!
これを醤油みりんで味つけしただし汁に浸せばおひたしになりますが、そのままポン酢をかけて食べてもおいしい。

調理時間が短くて済むのと、おひたしをつくるとき、お湯を捨てる手間が省けるのがいいですね。

ふたをフライパン代わりに使えるということですが、それは普通にフライパンを使ってもいいかな……と思います。

大好きな小林カツ代さんの本の中で、とりわけ好きなのがこの本。

小林カツ代の切って煮るだけ鍋ひとつだけ (講談社+α文庫)

小林カツ代の切って煮るだけ鍋ひとつだけ (講談社+α文庫)

無水鍋で作ってみたいレシピがたくさんあるので、これからいろいろ試してみようと思います。

ベルマークをなくしさえすればPTA活動はラクになるか

PTAのムダや非効率性を指摘するときに、必ずと言っていいほどやり玉に挙げられるベルマーク活動。

たとえばこの記事でも、

仕事量が多いことや、手間がかかるわりに成果が小さい活動が多いことも、働く親にとって負担と感じられます(例・ベルマーク活動)

PTAは働く親の負担? なぜ、なかなか「任意」にならないのか(大塚玲子) - 個人 - Yahoo!ニュース

として紹介されていますね。
その割に、ベルマーク活動はなかなかPTAの活動からなくなる気配を見せません。

ベルマーク活動をやめようという議題を持ち出すと、「それをすてるなんて とんでもない」という反応が返ってきて、とても話にならなかった、なんて話はよく聞きます。

ベルマーク活動は、私自身まったくやる気が起きない活動なので、「ベルマークむだ~」「ベルマークやだ~」「ベルマークもうやめよう~」という気持ちはとってもよくわかります。
それでは、ベルマーク活動を廃止しさえすれば、PTA活動はラクになるのでしょうか。

実はそうとも限らないのではないか。
もっと根本的なところをどうにかしなければ、ベルマークだけやめても結局のところ大変さは変わらないのではないか。
根本的なところをどうにかできれば、実は、ベルマークを残したい人がいるなら残してもいいのではないか。

というのが、この記事の趣旨です。

まず大前提として、みんな違う「PTA」について話をしていると考えよう。そして「ベルマーク」の位置づけについて

PTAの構成はさまざま

PTAのあり方は学校によって本当にさまざまです。ここを理解していないと、自分の学校を基準に問題点を提起したり、解決法を提案したりしても、別の学校では「???」となってしまうことも……。

たとえば「PTA役員」と聞いて、皆さんはどのような役割を思い浮かべますか?
この「PTA役員」という言葉が指す役割。実は、学校によってけっこうバラバラなんです。

PTA(Parent-Teacher Association)のうち保護者の役割は、おおむね、
・PTA活動全体をまとめる「本部」(いわゆるPTA会長、副会長、書記、会計)、
・個別の学校行事や安全活動等を担う「委員会(係)」、そして
・各クラスの保護者をまとめる「クラス代表」、
のような形で分担されているところが多いと思います。

たとえば、本部のメンバーだけを「役員」と呼ぶ学校があります。
別の学校では、本部のメンバーは「本部役員」と呼び、その他委員会(係)やクラス代表などの何らかの役割を果たしているメンバーを単に「役員(平の役員)」と呼んだりします。
さらに、本部のメンバーは「本部役員」、クラス代表を「役員(クラス役員)」と呼び、その他の役割のメンバーには特に名前がつかない、なんて学校もあります。
ほかにももちろんいろいろ。

4月ごろにしばしば話題になる「PTAの役員決めがゆううつ……」というような文脈で言われる「PTA役員」は、だいたいが、「委員会(係)」や、「クラス代表」のことを指していると思って間違いないでしょう。
そして、ベルマーク活動はこの「委員会(係)」の仕事として位置づけられていることが多いです。*1

このように、「PTA役員」という言葉の意味すらまちまちなので、「PTAの役員はさー……」という話になったときに、「どの役割のことを言っているのか」を確認しないで話を進めていくと、あっというまに食い違いが生じたりします。

役割の振り方もさまざま

そのうえ、保護者たちに役割をどのように振り当てていくかについても、学校によってさまざまです。

子供が在校中に、1回から数回、何らかの役割を果たせばそれでよいとされる(つまり、何の役もしなくてよい年が、少なくとも1年はある)学校。
とにかく「一人(一家庭)一役」で、子供が在校中はずっと何らかの役をしなくてはいけない学校。
前者と後者とでは、クローズアップされる問題の種類がおのずと違ってきます。

このように、話が具体的になってくるほど、個別の学校やPTAの事情に依存してくることが増えてくるわけです。

ただ、なかなかラクにならないPTAに共通していることが、おそらくひとつあります。
それは「みんなに平等に苦労を割り振ろう」という考え方です。

ベルマーク論争はなぜ燃えるのか

前置きが長くなりましたが、ようやく本題です。

ベルマーク活動が、手間の割に得られる収入はわずかで、きわめて非効率的な活動だ、ということについては、おそらく皆さんの認識が一致するところでしょう。
それなのに、「ベルマーク活動もうやめよう」派と、「ベルマーク活動あってもいいんじゃない」派がいるというこの状況。いったいどういうことなのでしょうか。

ベルマークやめたい人とベルマーク残してもいい人、それぞれの言い分

「ベルマーク活動もうやめよう」派の人たちの言い分は、
・ベルマーク回収と整理のためにわざわざ仕事を休むくらいであれば、そのぶんお金を寄付したほうがいい
・IT化する等、もっと効率的なやり方はないのか
といったものが多いようです。

「ベルマーク活動あってもいいんじゃない」派の人たちの言い分は、
・ベルマークの作業が好きだし、さほど負担にも感じないので、あってもいいと思う
・少ないとはいえ、ベルマークの収入で、学校の備品等を買うことができるので、子供たちのためにもなっている
といったものが多そうです。

どちらも説得力があると思いますが、「まああってもいいんじゃない」という人がいるのに、「やめよう」と言うのは、かなり強い主張です。ベルマーク活動をやりたいと思う人たちの選択肢を狭めるからです。

ベルマーク、ほんとうにやめないといけない?

それでも「ベルマークやめよう」と言わざるを得ない人たちが抱えている問題は、おそらく「ベルマーク活動の非効率性」そのものにあるのではないでしょう。
問題のおおもとは、「非効率でやる気が起きない仕事をむりやりやらされる」というところにあるのではないでしょうか。

やる気が起きない仕事であれば、その仕事をやらないという選択をすればいいだけのことです。
ところが、今のPTAの多くでは、そのような選択ができない状況になっている。そのことが問題なのだと私は思っています。

一人一役制のPTAでは、そもそも、「何のPTA仕事もしない」という選択そのものができません。
一人一役制でないPTAでも、何かしらのPTA仕事をしなければいけない年が必ずあります。
そういうとき、ベルマーク活動以外のPTA仕事は、実際の負担が重すぎてできない(たとえ興味がある仕事であっても)、という人はたくさんいます。
そこで、「負担が重い仕事は免除してもらうかわりに、『せめて』ベルマーク活動を……」というように、いわば「比較的ラクな仕事の受け皿」としてベルマーク活動が存続しているPTAがたくさんあるのです。

そして生じるのが、負担の重い仕事をしている保護者の「せっかくラクな仕事で済んでいるのに文句を言うなんて……」という思いと、やりたくもないベルマーク活動をやっている保護者からの「やりたくもないことをやらされるなんて……」という思いのぶつかり合い。

これすべて、「みんなに平等に苦労を割り振ろう」という考え方が元凶です。

「ベルマークやめよう」だけではおさまらない問題がある

「みんなに平等に苦労を割り振ろう」という考え方が支配している。こんなところに、「お金払うからベルマークやりたくない」「ベルマークそのものをやめよう」と言い出したらどうなるでしょう。
「お金を払える人だけが苦労から逃れるなんでズルい」「ベルマークやめてもいいけど、それならほかの仕事をつくらないと『不公平』」といった反論が返ってくることは、目に見えています。

繰り返しになりますが、「みんなに平等に苦労を割り振ろう」という考え方がダメなわけです。
だから、「みんながラクになる」方向で解決していかないと、ベルマークにまつわるゆううつな諸問題は、別の問題へと姿を変えて噴出し続けることでしょう。

「お金を払ってベルマーク活動を免除してもらう」「ベルマーク活動そのものをやめる」というのは、みんながラクになるのではなく、今ベルマーク活動をやっている人だけがラクになる方向だと受け止められかねません。
このような主張を続けていても、多くの人たちの反感を買いこそすれ、理解を得られることは少ないのではないでしょうか。

このあたりが、ベルマーク論争が燃える理由なのかなと思っています。*2

ベルマークがあってもなくても、ラクなPTA活動にしたい

それではどうやったら「みんながラクになる」PTAにできるのでしょうか。

どれほど考えても、最終的には「やりたい人が、やりたいことを、できるときにやる」完全ボランティア式にするということ以外、解決策はないように思います。
もっとも、実際にそれを実現するためにクリアしていくべきことを考えると、気が遠くなります。

学校の中だけでは解決できない問題がある

PTA活動は、学校内だけで閉じた活動ではありません。
今は、文科省からも「教育における学校、家庭、地域の連携」という方針が強く打ち出されている時代です(第4章 学校・家庭・地域社会の連携:文部科学省)。
PTA活動というのは、多くの人が思っている以上に地域(他校も含む)や自治体(教育委員会)等とのつながりが深いのです。
特に「地域の教育力」を期待された事業については、自治体から補助金が下りてくることもあって、無償ではどうかと思うくらいの責任と事務作業を負担しているPTAも多いと聞きます。

このような状況で、ある日いきなり「これから、当校PTAは完全ボランティア式にしま~す」と言い出すわけにはとてもいかないでしょう。
学校内で合意を取った上に、これまで築いてきた地域や自治体との関係を損なうおそれがないことを、外部に対して示して説得していくという、かなり周到な準備が必要になりそうです。近隣他校と連携して同時に改革、という形にする必要が出てくるかもしれません。

重い役割を担う人材を確保できるか

また、完全ボランティア式にした場合、いちばん大変なのは、ボランティア・センター的な役割を担うことになる人たちでしょう。
そういう役割を担ってもいいよ、という人がどれくらい継続的に出てくる見込みがあるのか、ということについて、不安を言い出す人も出てきそうです。
このことについても各学校の事情によるところは大きいでしょうが、ある程度の割りきりと楽観性で臨むしかないのかな、と思います。
つまり、「ボランティア・センターの構成員が少ないときは、それにあわせた規模の活動しかしない(できない)」と割り切り、「ある程度うまく、楽しく活動が回り出せば、ボランティア・センターをやってもいいと思う人も増えるに違いない」と楽観的に構える、というような具合です。

もしかすると、将来的には、ある程度重い役割を担う人たちには一定の報酬を、という方向での検討も必要になってくるかもしれません。

ボランティア式の成功例にも学ぼう

ここで勇気づけられるのが、実際にPTAをボランティア式にした嶺町小学校PTOの例です。
cybozushiki.cybozu.co.jp

先日、この改革を成し遂げた嶺町小PTOの元団長、山本浩資さんのお話を聞く機会がありました。
そのお話の内容は、もし今、強制参加PTAで悩んでいるところであれば、不安や越えるべきハードルがどれほどたくさんあったとしても、「とりあえずなんとか、完全ボランティア式の『お試し』だけはやってみたい」と思わせられるものでした。

このような成功した例にも学びつつ、焦らず、じっくりと、そして何よりも「子供たちのため」ということを忘れず、自分の学校と地域の実情に合ったPTAを目指していけたら、どんなにいいでしょうか。

嶺町小PTOでは結局、ベルマーク活動は存続していると聞きます。
「やりたいことをやれる」「やりたくないことはやらなくてもいい」PTAであれば、ベルマーク活動をやるかやらないか、はもはや燃えるような問題ではないのかもしれません。

*1:本部役員は、前年度中に次年度の候補が決まり、前年度末のPTA総会で次年度の本部役員が承認され、年度初めから活動を開始しているところがほとんどだと思います。ちなみに私は、この「本部役員」を務めて、今年で3年目になります。

*2:これ、実は「ベルマーク」を「PTA活動全体」に置き換えても、同じ話が成り立つような気がしています。